2026.05.01

今日も自宅スクリーンで映画。シャマランの『トラップ』はちょうどいい湯加減で完璧な仕事だった。よき父親が連続殺人鬼であったと発覚した後の娘へのケアはほとんどないのが気になったのだけれど、そもそもその娘が憧れてやまないポップスターをほかならぬシャマランの娘が演じていると知って、そのあけすけさに笑ってしまう。だからどうあれこの映画が子煩悩映画であることが揺るがないのである。シャマランはとにかく抑えきれない衝動と円満な家庭というもののあいだで引き裂かれるような話ばっかり撮っている気がするが、娘をこういう役に配置しながら、父殺しは結局完遂されないような映画を撮って、いよいよどういうつもりなのだかわからない。きちんといい湯加減の面白さを保ちつつ、筋書き以上に心理的な解釈において幾重にもツイストし、そのくせ奇妙に素朴でもあるというこの味はシャマランにしか出せない。ヘタウマというには巧すぎるのだが、精緻というにはヘボい。職人技だ。

ダフネ・パタキアがもっと見たくて『ファイブ・デビルズ』。プルースト効果を比喩ではなく文字通り映画にするとこうなるとばかり、臭いを通じて過去にジャンプする少女の話なのだが、これはかなり奇妙な話だった。娘は母親が母親になる前の一個人として経験した恋愛に立ち会うことで、母の失恋によってできた自らの存在を母以前の個人の抑圧として見出すことになる。本作のタイムトラベルは、過去を介した現在の修復というような外交的な冒険ではなく、自分という存在が親の可能性を潰えさせたのではないかという内省の喩なのである。結果として、娘は母を解放する道を選ぶのだがこれがすごい。母がひとりの女として解放することを決意した娘が、取り残された同士として父親とふたりで身を寄せている。一方でひとりの女は恋人と出立していく。なんというか食べたことない味がした。意図せず、肉親の見知らぬ個人としての側面に触れ、離別していく映画二本立てになった。

仲西森奈さんがInstagramで、随筆時評をきっかけに刊行後の出涸らしのような感覚に変調があったというようなことを書いてくれていて、自身の「応答文」を「呼応文」「触発文」とでも呼ぶべきかもしれないと書いている。これもまた嬉しい。誰かがべらべら喋ってるのに耳を貸しながら、なんか触発されて別の何かをべらべら喋りだす。一見したところ繋がりもないただの飛躍のようでいて相手の発話があったからこそ出てきたものを発している。それが連なってゆく。そういうのがいいおしゃべりだと信じているし、そういう意味で批評というのは「おしゃべり」なのだと考えている。いいおしゃべりができたのかな。

相手の発言を繰り返すとか、要点をまとめるとか、敷衍するとか、そんなん「ちゃんと」だらだら喋れてないじゃん。もっとそれでいえばさー、ってぜんぜん関係なさそうな話へと脱線してくほうが楽しい。楽しい方がいいじゃんね。

夕食時まで具合が悪そうだった奥さんと好戦的なやり取りをしてしまうが、結果として頭にかっと血がのぼることで血行が促進されたのか、だんだん顔色も機嫌もよくなってくる。食後はなかよく散歩までした。とにかくおしゃべりだ。なんでもいいからおしゃべりが続けば元気が湧いてくる。それはたぶんまちがいがないのだ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。