きのうは生活上のメンタルブロックをひとつ突破できた感があり、即物的な行為でしかどうにもならないことはあるよなと思う。中年とは観念よりも行為にこそ説得される年頃なのだろう。通勤の終盤で雷が鳴り、建物に駆け込むと窓越しに土砂降りの音が聞こえる。
『資本主義が嫌いな人のための経済学』の右派パートを読み終え、疲れ、解説の吉川浩満が併読を勧めている『経済学という教養』を読み始める。序文から現代思想にかぶれていき過ぎた相対主義キッズどもを解毒するための本だと宣言されており、これこそ僕のための本じゃんと思う。こちらはモダニズムを舐め腐ってしまっている人のための経済学なのかもしれない。一章ではまず不平等に対しての「左派的誤謬」について検討されていくことになるようだ。
先の竹内『メリトクラシー』と同年に出された『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)で、教育・学歴格差に焦点を合わせながら苅谷は「平等化」論に疑問符を突きつけた。すなわち、戦後日本において全般的な学歴水準の向上はあったものの、社会階層間での学歴格差そのものは一向に解消しなかった、と。しかしながら苅谷も、先に触れた佐藤と同様に、にもかかわらず存在する「中」意識に触れざるをえなかった。すなわち、人々は学歴差別・学校間格差を声高に非難したが、なぜかその批判は学歴格差の背後にある階級格差には及ばなかった。「金持ちほど上の、いい学校に行く可能性が高い」現実に対して上げられた批判の声はなぜか「『いい学校/悪い学校』の差別は間違っている」という方向にのみ進み、「金持ちほどいい学校に行くのは不公平だ」とはならなかった。かくして戦後日本では、広範な人々が積極的に学歴取得競争に参加していくようになった、と。
しかし二〇〇一年の『階層化』で、苅谷は新しいヴィジョンを提示する。八〇年代から九〇年代の学生たちの追跡調査を踏まえた苅谷の主張のポイントは、以下のとおりである。まず第一に、「学力低下」がよく問題とされるようになったが、低下が疑われるのは学力水準だけではなく、学習意欲でもあること。第二に、学力も学習意欲もただ低下したのではなく、とりわけて低い社会階層に属する家庭の(平たく言えば、貧乏人の)子どもにおける低下が著しいこと。つまり学力・学習意欲それ自体に階層間格差が生じている疑いが濃厚であること。そして第三に、このような学力・学習意欲の低い子どもたちのほうが、一見逆説的にも、現状に満足している度合が高いこと。これが苅谷の言う「インセンティヴ・デバイド(意欲格差)」である。
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かつて竹内が描いた日本の学歴社会の中では、人々は競争に負けても「降りない」ことによって競争のシステムを支える。そして競争のシステム自体に反逆することはない。システムが不平等であるとわかっているにもかかわらず、そこから「降りない」ということ、これが「中」意識の具体的なあらわれの一例である。そして、このように見るならば「中」意識とは、ある種の「公平」感と密接に結びついているらしいとわかる。つまり人々は、「降りない」ことによって学歴競争のシステムに対して支持を与えている──何らかの意味で「正しい」ものとして、たとえ熱烈にではないにせよ、渋々ながらとしてもその「公的」な存在意義をプラスのものとして認め、受け入れている、と推測できるのである。つまり竹内の描く学歴競争は、あちこちきしみ、ゆがみを見せながらも、それでもなお一つの「公共性」の装置、人と人とをつなぐ「連帯」の仕掛けでありえていたのだ。 これに対して今回苅谷が描いた日本の学歴競争において、「負けた」人々は競争から「降りる」。しかし「降りた」先どこに行くかと言えば、やっぱり反逆はしないで、競争の外側に自分たちなりの幸せを見つけて自足していく。そうやって結局、競争のシステム自体は存続していく。しかしこうなってしまえば競争システムはもはや「公共性」「連帯」の装置ではない。「降りた」人々はもはやシステムに「承認」を与えてはいない、関心を失ってただ「放任」しているだけだ。」稲葉振一郎『増補 経済学という教養』 (ちくま文庫)
このあたりはまだ経済学というより社会学の領域だと前置きされているけれど、このあたりの整理は『ハマータウンの野郎ども』の日本版という感もあるし、いま読んでも非常に腑に落ちる。僕自身、競争から「降りて」自足しているという自覚が長らくある。しかし僕は、非流動的な階級によって規定された競争システムから脱落したところで独自の文化を形成しそれなりに満足している「野郎ども」ではまったくなかった。僕が「降りた」と自覚しているものは「野郎ども」文化内での競争であり、じっさいはむしろ学歴競争への参入をこそ意味していた。熾烈な競争から「降りた」つもりで実は階級の再生産あるいは上昇に与していた、というねじれは、ヤンキー文化が色濃い地方出身の同世代亜インテリたちにはわりあい共有されているものではないだろうか。「野郎ども」に対する憧憬と侮蔑のないまぜになった、同化と切断の両方を無理に演じたがる心性の根っこにはこのようなねじれがある。
