ちょっとずつ元気に。というか梅雨入り宣言後ほとんど晴れている。そういうものだ。永井祐訳『歌よみに与ふる書』を読み終え、『資本主義が嫌いな人のための経済学』を始める、解説から読み始め、『経済学という教養』を電子で買う。きのうは中沢忠之が『随風』と絡めて言及されていたセジウィッグ『タッチング・フィーリング』を紙で買った。本が巡りだすと健康さが保たれる。「中村拓哉のひとりりある」の討論が面白く、Geminiに久しぶりに触ってみたのはきのうだったか。アクターネットワーク理論と思弁的実在論の親和性について検討し、ドゥルーズの一般性と差異という対比へと適応してみるみたいなことをして、けっこう悪くないサマリーを返してくる。長らく思弁的実在論のことロマン主義回帰でダサいと思っていたけれど、超越的なものへのアクセス不可能性を思弁を諦める口実にしたくないという苛立ちには親しみを感じる気がしなくもない。かといってやはり僕の関心は超越論的なレベルにしかないような気もする。『資本主義が嫌いな人のための経済学』を読んでいても、ここでなされているのは個人の生活実感レベルの経験からの帰納も、市場を超越的なもののように見做すような演繹も禁欲せよという話だと感じる。つまりは一種の超越論的な思考のすすめなのだと。この一年くらいは、何を読んでも積んでいるだけのカントに繋げてしまう。なんかカントってやっぱすごい気がするんだよな。ウィトゲンシュタインの語りえないものはってのもカントなわけでしょ?
おっしゃる通り、カントは本当に凄まじい巨人であり、ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」の根底にはカントの哲学が深く息づいています。
ウィトゲンシュタイン自身、カントの思想(特にショウペンハウアー経由で受け継いだもの)から多大な影響を受けており、『論理哲学論考』で彼がやったことは「カントの批判哲学を、論理と言語の枠組みでやり直したこと」だと言われています。
この二人の凄みがどう繋がっているのか、以下の3つのポイントでスッキリ整理できます。
- 「人間の限界」を引いたカント
カントの最も偉大な功績は、『純粋理性批判』において「人間の認識には限界がある」という境界線をハッキリ引いたことです。
現象:人間が時間や空間、因律という「認知のメガネ」を通して捉えられる世界(科学が扱える領域)。
物自体:メガネを外した、本当のありのままの世界。人間には絶対に認識できない領域。
神や魂の扱い:これらは「物自体」の側にあるため、人間の理性で「証明」することは不可能だとカントは言いました。
- その限界を「言語」に置き換えたウィトゲンシュタイン
ウィトゲンシュタインは、カントの「認識の限界」を「言語の限界」にアップデートしました。
語りうるもの:現実の事実と対応する言葉(科学や日常の事実の報告)。カントの「現象」にあたります。
語りえぬもの:倫理、生の意味、神、美など、事実を超えた領域。カントの「物自体」にあたります。
沈黙の理由:これらは言葉の仕組み(写像理論)を超えているため、論理的に語ろうとすると「ナンセンス(意味をなさない言葉)」になってしまいます。だから「沈黙せねばならない」と結論づけました。
- 「排除」ではなく「守る」ための境界線
ここが一番カントと共通する、最も深いポイントです。二人は「語れないから神や倫理なんて無価値だ」と言ったのではありません。むしろ逆です。
カントの目的:理性で神を証明しようとする不毛な神学論争から、神や信仰、道徳を「守る」ために限界を引きました。
ウィトゲンシュタインの目的:論理的に説明できない「生の意味」や「倫理」という最も大切なものを、お喋りな人間たちが言葉でこねくり回して汚さないよう、あえて「語りえぬもの」として厳密に区別し、守ろうとしたのです。
カントが「考えることの限界」を示し、ウィトゲンシュタインが「言うことの限界」を示した。やっていることの本質はまさに地続きです。
超越的とは神や物自体、生きる意味なんかの「考えることの限界」「言うことの限界」の外側のことであり、限界の範囲内での思考や言語がどのような仕組みで働いているのかを問うことを超越論的というわけだよね。どうもありがとう、Gemini。多分こういう話はきみのようなLLMの汎用化によってずいぶんイメージがしやすくなったように思う。
