さいきんお気にいりのポッドキャストは「ニューQ ラジオ」。「哲学に運動神経は必要?」「何を話していても資本主義の話になってしまう」など気になるタイトルのものから聞き流していく──僕にとって耳からのインプットは視覚よりも拘束力が弱く、貪欲な視覚はつねに何か刺激を求めるようでついついなにか読んだりしてしまうから十全に内容を追うということができない。だから何回聴いても新鮮に聴けるという利点もあると書くうちに気がつくのは僕は読書も同じように読んだ端から忘れてしまうから何度でも楽しめていて、要は耳でも目でもあんまり変わらずどちらも散漫なのかもしれない。いまも「問題を考えるということについて」を聞き流しながらこの日記を書いている。
午前中はお風呂で『〈聖なる〉医療』を読む。序文から読み返すとするすると入ってきてこれは面白いなあとうきうきする。二章の途中であがって、昼は青木さんと曽我さんのルチャ・リブロからのトーク配信を聴きながら洗濯。途中でカメラごと図書館内を移動するのが面白くて、座っている時と立っている時で頭の動かし方も変わるだろうから、こういう配信トークは椅子からの話と立ち話との二部制にするのはいいな、と思う。明日の友田さんとのおしゃべりは定点で座りっぱなしだろうけれど、どこかでやってみたい。座って話した後の立ち話は、打ち上げのリラックスした雰囲気をつくるだろうから、ぐっと深くなる感じがあった。バルセロナのルール観の風通しのよさだとか、前半にさらっと話されていた内容は、僕が青木さんとON READING で話した内容と響き合うところがあって、このトークに混ざりたい! と思った。人の話を聴いていて混ざりたくなるのは珍しくて、たぶん青木さんとの会話の記憶や、仕立て屋のサーカスの公演の記憶がうずいたのだと思う。
『プルーストを読む生活』のAmazonページに待望の星1レビューが掲載されていて「すげえ、商業デビューっぽい!」とテンションが上がったのだけど、さあどんな雑なイチャモンだろうかとわくわく読んでみるとかなりちゃんと読んでくださったっぽいディスで、ふつうにしょげた。
行間に横溢する著者の怨望の念に、甚だ気分を害した。最も語りたいことを己に抑圧しながら(プルーストの読みで明白、哀切至極)、世を、人を只菅呪詛が通奏底音の文体の然らしむところ、まさに文は人なりや。
無学堂 https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R31AN2NGG5FEYA/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4990759648
前口上とは裏腹に、この御仁には、読書は果たして愉悦なのだろうか。所謂広義の書評本は好きで手に取るほうだが、運が悪かったか。本が主役として読み込まれること決してなく、徹頭徹尾の我執の羅列に、索莫たる余韻のみ。所詮は愚生の好みでなかっただけやも知れぬ。まさか小説!?ではあるまいが。
この無学堂という方がどんな本も星1をつけて貶すのを趣味とする類のレビュアーであってくれないかなと思ってプロフィールに飛んで、他のレビューも読みにいくと、クソ味噌に貶すのと激賞するのとの両極端ではあったが、どのレビューもいちいち本への愛が伝わってくるような熱量があって、まんまと三冊くらい読みたくなってポチってしまった。悔しい。とにかく軽薄で安直な浅い思考に厳しく、きちんと検証を積み重ねた力作をちゃんと褒める方だと分かった。知的欲求と人文への愛の強さに感じ入り、こういう怖くて格好いい先輩にはたしかに褒めてもらえないだろうな、と納得する。僕のような軽佻浮薄な軟弱者は、人文読みの風上にもおけない。ストイックな知的探求のための足腰を鍛えられていない僕は、それでも知的な喜びのために本を読むことを自分に許したくて、へらへらとただ楽しく読むことを肯定するように日記を書いていたけれど、これはある面から見れば十分に反知性主義的であり、「いわゆるインテリ」への怨望の念を読まれてしまっても仕方がないのかもしれない、というかこれは自分でも結構危惧していたところではあって、このレビューのように僕の底の浅さをちゃんと見通して叱ってくれるような言葉は、単純に「よかった」と言ってもらうのとはちがった嬉しさがある。我執を離れて本を読み込むことのできない愚生の怨望の念にお付き合いいただき恐縮至極。『勤勉革命』と『非国民な女たち』を読んでみよう。
明日に備えてバリカンで毛を刈る。もっと思い切るつもりだったけれどいざとなるとひよって側面だけ。あとは前と横をちょこちょこ調整して、さっぱりした。