『ブルーノ・ラトゥールの取説』読み終え。「近代とは何か」の章はそれこそ手持ちの思考の設定を一回保留して一からセットアップしていくような興奮があって、二回読み返した。これは面白いなあ。どんどん壊れていく車を直しながら走らせて、しまいには船や飛行機に改造して海や空を駆けさえもする、そんなアニメーションをどこかで観たような気がするというか、そういうイメージを想起しながら読んだ。自分というものも一意に決まるものでなく、周囲との関係の中で絶えず生成変化している。そしてその変化のありようを個人が予測することも計画することも制御することもできない。だから自分の変容に事後的に気がつき続け、直しながら、あるいは否応なく変わりながら日々を過ごしていくほかない。
「素直にいって、私はラトゥールが好きではない。」というあとがきの書き出しにケラケラ笑った。
なお、前著と本書に登場する「生成」という言葉には、特にポジティブな意味も特にネガティブな意味も込められていない。 特にポジティブでない、とは「異質な他者と関わることによって前もって理解も予想もできない仕方で自らを変容させていくプロセス」それ自体を称揚し特権視するつもりは全くないということである。むしろ、実践においてありふれた(だが常に忘却される)契機として位置づけ直そうとしている。 特にネガティブではない、とは前もって理解も予測もできないとはいえ私たちは常に生成のプロセスに携わっており、間接的で再帰的な仕方ではあれ、それについて語り考えることは可能だ、ということである。本書の裏面の主題は、非還元、媒介/仲介、アクターネットワーク、存在様態といったトピックからなるラトゥールの一連の議論を、生成を生きながら生成を思考しうる方法論の一つとして提示することにあった。生成の只中でそれを捉えるためには、近代的な「人間」という形象から私たち自身を引きはがす様々な手立てが必要となる。それが、前著の事例分析と本書の理論的考察を貫く問題意識である。 久保明教『ブルーノ・ラトゥールの取説』(月曜社) p.262-263
自然というものが所与のものとしてあり科学はそれ自体自律して発展していくという発想も、あらゆる事象は社会の構造によって構成されていくのだという社会構成主義も退けて思考していくという、近代を相対化するような方法は、なんとなくしかし決定的に僕の中に根を下ろしていく予感がある。
その後開いた『うつの医療人類学』および『ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』の二冊も、ラトゥールの目線をどこかに持ちながら読むことになりそう。どちらも序文から期待が高まる本で、気分としては明らかに医療なのだけれど、返却期限の関係で一回マスキュリニティを挟むことにした。序文のテディベアのくだりでちょっと泣きそうになってしまった。僕は誕生祝いに贈られたんだったかのくまのぬいぐるみを今も手許に置いてある。まあこのぬいぐるみはずっと特別だったというよりは子供の頃はもう一匹のくまのほうを可愛がってすらいたのだけど、なんとなく上京のタイミングで連れてきてから妙に愛着が湧いて、気がついたらずっと一緒だ。