2021.05.14(2-p.53)

今日も久保明教。読んでいると元気になる。風通しのいい文章。ワクチンという言葉にどうしても今は敏感に反応してしまうが、COVID-19という変数の投入によって、諸関係のありようが組み変わり、結果として表面化する意味内容がずいぶんと様変わりするただなかにあるいま、社会というものを対象として抽出できるようなものとして描くのではなく、諸関係の結果として捉えるラトゥールの議論はむしろわかった気になりやすくなっている。

例えば、新たなワクチンが市場に出回り、新たな職務規定が示され、新たな政治運動が生まれ、新たな惑星系が発見され、新たな法案が票決され、新たな大災害が起きる。どの場合にも、私たちをひとつに結びつけているものに対する考えが揺さぶられる。それまでの定義が多少なりとも有意でなくなっているからだ。私たちには、もはや、「私たち」の意味するところが良く分からない。私たちは、いつもの社会的な紐帯とは似ても似つかぬ「紐帯」によって結びつけられているように見える。[3]

簡単に言ってしまえば、「連関の社会学」とは、「社会」なるものを「原理的に還元不可能な諸要素の原理的に制限のない結びつき」として捉え直す試みである。したがって、そこには従来の観点からは社会学とは思われないような研究も含まれることになる。 (…) そもそも「社会的な」(Social)という語は、諸言語の歴史的系譜において、「誰かの後についていくこと」、「加わること、集まること」、「何らかの共通点を持つこと」など、あらゆる種類のつながりを表わす言葉であった。ルソーが創案した「社会契約」や一九世紀に広まった「社会問題」といった概念を通じて、「社会」の適用範囲が人間と近代社会に限定されてきたために、私たちは社会的なものの領域がそれより遙かに広いものであることを忘れてしまったのだ。そうラトゥールは言う。

[3]ブリュノ・ラトゥール、二〇一九『社会的なものを組み直す:アクターネットワーク理論入門』、伊藤嘉高訳、法政大学出版局、一七〜一八頁

久保明教『ブルーノ・ラトゥールの取説』(月曜社)p.133

このあとになされるモダニズムを外在的な理論を「知る」研究者と自身の内在している構造を「知らない」当事者という図式に、ポストモダニズムを外在的な存在などあり得ないという前提のうえで自身の内在する場を「疑う」ことのできる研究者と「疑わない」非研究者という図式に整理していくのを読んで、セルトーの『日常的実践のポイエティーク』の再読において信の問題が前景化してきた理由を考えていた。ポストモダニズムが外在的な根拠の失効を疑うことで乗り越えていこうとする限り、つねにすべての妥当性を疑い続けるという事態が準備されている。行動することの困難が大きくなる。どこかで「ある程度」で決断しなければ行為はできないからだ。セルトーはこの「ある程度」での思考停止、疑いを振り切り行為するために必要なものとして、超越的なものへの信仰というものを置こうとしたのではないか。

そしてラトゥールは、信仰による決断ではなく、あらゆるものを諸アクターの関係の網目のありようとして捉えることによって、行為を促しているのかもしれない。あらゆる構造は不変の構築物ではなく常に内在する諸アクターの動向によって変容を被っているという見方に立てば、あらゆる行為は現状の「社会」や「資本主義」といった構造やシステムの様相を変えていく契機でありうるからだ。

日焼け止めを塗るのを忘れて、ランチに出るとき首筋に照りつける日差しが痛い。人の顔の個性とは下半分に多く宿るのかもしれない。上半分だけだと秋元康な人と上半分だけだと新海誠な人と隣り合わせで蕎麦を食う。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。