2021.05.20(2-p.53)

『死霊館』は爽やかで、洋ホラーは爽やかでいけない、やっぱりゾンビじゃないとダメだ。そう思って『ゾンビランドサガ』を観始める。シーズン1エピソード7は完璧で、すでにここで最終回を迎えている。しかし最終回を超えて、すでに生き生きとした熱さは減じていく一方だとしても、それでもなお続いていくんだというところにこそ、本作のゾンビとしての矜持はある。そう、ゾンビとは終わりではなく終わりでさえも終わりではないという果てなき消費文明の象徴であり、それは必ずしも絶望ではない。ロメロを起源とするゾンビ史観に立つならば、そもそもゾンビとは始まりから資本主義の批評であった。そしてその批評はおおむね賛ではなく否にこそ傾いていた。『ゾンビランドサガ』はゾンビにアイドルという消費文化のひとつの極点を掛け合わせることで、いま一度資本主義の別のあり方──持続を第一とした脱成長のポジティブな提示をなそうとしているように思える。そしてそれは、ロメロの時代にはいまだマイナーであった資本主義への疑義がむしろ大きくなっているいまだからこそ持ちうる批評的スタンスであろう。蛇足、マンネリ、決して成長しない偶像としてのゾンビ。しかし停滞はしない。動き続け、進み続ける、成長はしなくとも前に進むことはできる。純子は昭和の価値観を更新しない。リリイは子供から成長しない。たえはゾンビから目覚めない。サキは90年代から動かない。ゆうぎりはずっとありんす。そして誰もが「持っていない」ままでいる。

死んでも夢を叶えたい
いいえ 、 死んでも夢は叶えられる
それは絶望感?それとも希望?
過酷な運命乗り越えて 脈がなくても突き進む
それが私たちのサガだから‼︎

フランシュシュ「徒花ネクロマンシー」

停滞し続ける経済において成長を夢見ることは虚しい。それでもなお、何もなくとも明日はある。資本主義リアリズムに傷つく人々のカンフル剤としてのアイドルソング。それは結局は虚しい消費のサイクルの補強に過ぎないのかもしれない。けれども、ありえない成長を望むのではない形で、ただ明日を迎え続けるための営みを、どこまで断罪できるだろうか。よりよい未来を想像すらできず、現状をただ肯定するしかないような僕たちはすでにゾンビと同じくらいグロテスクではなかったか。老いていく斜陽の国で、成長せず腐敗していくアイドルからかけられる生涯現役大往生という発破の意義は重い。シーズン2でどんな蛇足や循環をみせてもらえるのか楽しみでならない。

一日でアニメの1クール消費しちゃうのってやばくないですか?

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。