今日も雨。出勤の日に限って雨ばかりというのはさすがに認知の歪みというものだろう。天気と人は映画と違い主従が逆で、天気によって感情が規定される。ある程度は。朝の駅までの道に配置される古いアパートの塀にこれまでなかった表札が取り付けられている。ラミネート加工されたプリント紙でつくられた簡素なそれにはラッタウット・ラープチャルーンサップみたいな名前が三人分くらい連名で記されていて、カタカナのそれを作ったのは彼ら自身だろうか。ここにいるぞ、と通りに向かって表示するその意味が本人たちにとってほがらかなものであってくれ、と思う。
学生の頃の僕は根明でがさつで、だからこそ繊細さとかが格好いいものだと思って体の線が細いのをいいことに感傷的で厭世的な自己を演出しながら、幼い過剰さで膨れた自意識を満たそうと賢明だった。ほがらかという言葉がもはや祈りのように感じるいまとなっては、あのころの軽薄さのなんと逞しいことか! いちばん老いを感じるのは、切なさやさみしさにナルシシズムの満足ではなく、じっさいに痛みをおぼえることだ。感性というのはまったくフィジカルなものであることをいまはよくわかる。
昼に入った商業施設内で客を待ちながら手を前に合わせて直立する人が何人かいる。ひとりはその待機の姿勢に擬態するように、伸ばし切った手の中にスマホを隠して、首を地面と平行に曲げながらそれを操作していた。その、手元をじっと見つめながらいる姿は立ち小便を連想させた。
部署ごとに同じ語でも用法や意味が違うような混乱した官僚システムのなかで働くことと、一見異常者の怪電波としか思えない難解な思想書を読むときとに共通して重要なのは、聞き覚えのある言葉だとしてもわかったふりをせずに「その言葉、どういうつもりで使ってます?」といちいち訊ねる態度だ。わかった気になるよりも、あれもこれもわかってなかったと何度でも気が付けることこそが知性的であるということだろう。これは実は奥さんとよくいう言語化というものの基本であって、言語化というのは別の言葉が指し示すものの差異を擦り合わせるための言語運用というのが主で、だからこそわかった気になっている社会的に流通し過ぎている語彙に頼るとすぐに破談する。だから僕は辞書的な意味以外の運用を頑なに認めようとしない態度に対してつよめの反感を覚える。誤用という運用の意図や効果、それを培った文脈をこそ考えるべきで、誤用であるから誤用であるというのは、語の運用者を軽視して、単なる道具に過ぎない言葉を使用者よりも優先させるような態度は極端に思える。これが物神化ということだろうか。言葉によってもたらされる交歓や交流こそが重要なのであって、その正確な運用は絶対的な価値ではない。この日記に誤字脱字が多かろうと、誤字脱字だと気が付けて意図した意味が通るのであればそれでいいじゃないかというと言い過ぎで、それは直しなさい。ハイ。
存外早く仕事が終わったので夕方から奥さんと待ち合わせをして渋谷の植物園に散歩に出かけた。奥さんに会いにいく電車の中では今日toi books から届いていた『長い一日』を読んでいた。滝口悠生の小説を読むと僕は、もっと泰然自若人でありたい、鷹揚に優しくありたいという思いでいっぱいになる。日々やまわりの人たちがいっそう愛おしいような尊いような気持ちになり、しかもそれはすこしの切実さもなく、読んでいくうちにじっさい僕は悠然としていくので、子供の頃からの飄々としたところがひょっこり顔を出して、なんてことない感じで自分の好きな人たちのそばに立てるような感じがしてくる。はやく奥さんに会いたいな、と思う。
奥さんは寝不足かつ健康診断のために断食していたから主に塩分が足りない脱水気味で、僕と合流するまで右往左往していたらしい。とにかく飲み物を買って、そのへんで休んで、それから川のそばの植物園行きを決めたのだった。それはいいお散歩だった。こじんまりとしつつも亀までいる植物園は、棚ぼたのデートとしてちょうどいい気張らなさで、たくさんの草や木を見て、植物は多少の違いこそあれ五感のようなものがあることをよすがに世界の近くの仕方を人間のひとりよがりな想像で補完できる気がしてしまうほかの生き物と比べて、まったくその環世界をうまく思い描けないからこそ空間を共にしていると気持ちがいい。想像の及ばない全く異なる方法で世界にあるものたちの存在を前に、不思議だ、と素朴に思うことで、いま隣にいるこの可愛いひとのことも本当は同じくらいよくわからないということを思い出せるというか、なんでもなく腑に落ちる。そういうふうにして風通しのよくなる部分が自分の中にはある。パイナップルの実のつけ方を初めて見た。
地下道のカフェで甘いものを食べながらこの前の録音の続きのような話をして盛り上がっているとあっという間に時間は過ぎて、あやうく期日前投票に間に合わないところだった。選挙の後なのに外食をしないで帰ると同居人がお子様プレートのような豪華な夕食を準備してくれていた。エビフライやクリームコロッケ、ハンバーグにオムライスがワンプレートにきれいに盛り付けられている。