朝起きて僕は決意した。本棚に収まるくらいの量まで本を減らそう。バリューブックスのノベルティキャンペーンに釣られるような形で、追い込みをかけるため先に集荷依頼をかけて、どうにか一箱ぶんだけ売る本を捻出した。金額は別にいいが、こうしてみるとこの二、三年で買った新刊ばかり手放したので、もしかしたらある程度は値をつけてもらえるかもしれない。手ぬぐいが欲しいがお酒になるかもしれない、と調子のいいことを考える。真澄には奥さんとの諏訪湖旅行の際に蔵見学をした。坂道に五つくらいの酒蔵が連なっていて、全部回って、あれはいい旅行だった。新刊を手放せるのは、僕にとって本屋に通い本をばかすか買うことがこの二、三年で普通のことになってきたということだろう。この本はあそこで買った、と全ての本について思い出す。そうやって箱詰めしていった。去年までは多分まだ、あそこで買った、と思った瞬間に、そういう記憶と一緒に手放すような気持ちになって売れなかったような本も、まあまたあの店では本を買うしな、と思えるようになった。これは僕としてはかなり大きな変化ではないだろうか。
夜は両親に電話。保坂さんとのことをほやほやのうちに聞きたいというので話す。今日になって疲れがどっときていてへろへろだったからそんなに溌溂とは話せなかったけれど、話せてよかった。話していると途中から何の相槌も聞こえなくなって、聞いてる? と聞くとしばらくの無音のあと、ええー、すごいじゃーん、そうかー、えそれはこういうことなの? ん、あれ、聞こえてる? とその無音の数分の間に打たれていた相槌だけがスピーカーから流れてくる。連発される合いの手のあいまには自分の発言部分の分だけ空白があって、幽霊になった気分だった。ビデオ通話だと重たいようなので生還した僕は音声のみに切り替えてもうしばらく話した。父が『カンバセイション・ピース』を買っていなかったらもしかしたらこれまでの生活で起きた事の半分も起こらないでいたのだというのは大袈裟かもしれないが、事後的に振り返ってしまったらそういうことになる。
それからtoi books でのイベント「滝口悠生×柴崎友香『いちにち ― 小説とある時間と記憶』」に参加。眠さもピークで、うとうとしつつ、いいなあ、いいなあ、と聴いていた。窓目くんの話が訊きたくて、時間ギリギリで、質問を頑張って打ったが、うまく書けた気がしない。けれども応答としてのお話もとても面白かった。僕は小説を考えるときいちど演劇を経由するようなところがあって、そうなるとやっぱり空間や身体の所在あるいは所在のなさが気になるらしい。モデルがあろうがなかろうが作中人物が現実の存在と全面的な対応関係にないなんてことは当然のことなのだけど──作中人物となってしまえば誰もが一度身体を失うのだから──そうやって一度身体のない存在となった小説の語り手に身体を貸すのが書き手の立ち位置なのかもと考えたとき、語り手やほかの作中人物の内面を描くことはじつは容易で、それぞれにちがう身体の感覚を書く事の方に困難があるのではないか、というようなことを訊きたかったんじゃないかといまになって思う。でもこれも自分で書いててよくわからないな、とも思うから、まだ嘘かもしれない。