昨晩は突然気を失うように眠った。もともと夕食を食べている最中から猛烈な眠気が来て、満腹による眠気はだいたい全身がポカポカしてくるのだが、そうではなく全身平熱。至ってクールで猛烈な眠気だった。おそらく単純な活動限界なのだろう。それでも習慣の力で食器を洗って日記を書くのまではやりきって、それで力尽きてシャワーも薬も歯磨きもすっ飛ばして、いや、すっ飛ばすという意識さえしないまま眠っていたようだった。目覚めるとあまりに鮮やかな切断に日付の感覚が喪失し、これだけのんびり起きたのだから今日は休日に違いない、と思った。朝だったし、平日だった。いまもまだ納得いってない。お腹の調子が非常に悪く腹巻を装着する。午前10時までの間にすでに四回トイレに行っている、と下書きに書いてある。
『通天閣』。近代的な都市開発によって拡張された道から駆逐される大道芸人や零細商人たち。
近代的交通は、芸人よりさきに、まず大道を駆逐した。まるであたらしく拡幅され舗装された道路から、かつては住人であった犬や蛙が駆逐され、ときには道の脇や下に死骸をさらすように、かれらも「落伍」を余儀なくされるのである。道の功績を称える美称である「大道」(郡司正勝)が、道が交通の目的のための手段にすぎぬものではなかったこと、そしてその道のありようを芸人たちは糧にしていたとすれば、落伍者である大道芸人の芸も、もうなにかの──「生活」の──手段としてしかあらわれない、というわけである。
酒井隆史『通天閣』(青土社) p.645
僕はもちろん寅さんのことを想起している。僕はどうも近代であるとか資本主義というもの──それを僕は全面的な単一規格化のことだと最近は整理している──からはみ出るものとして、寅さんを捉えているらしい。そして読み終える。ああ、いい本だったなあ。あとがきで、この本の生成過程自体もスラム的というか、計画からどんどん漏れ出て歪なほど巨大になっていくようか軌跡を辿っていたと知れて嬉しくなる。一個のスプロール都市について活写する一冊のスプロール本。
奥さんは今日もワクチンの予約にトライして失敗していたが、同じ区に住む人のツイートを見たり、じっさいの奥さんの実感からして、リアルに画面の向こうに何人もの競合者がいて、リロードするたびに状況が変わる。これ、もしかして本気で張り付けば取れるのかな、と思えるような事態で、そうなると僕はすこしやる気が出るらしく、予約ページに張り付くのをやってみることにした。なんどもリロード、タップを繰り返していくと十五回目くらいで予約が取れた! 取れた、と言うと競っていた相手は当たり前だが奥さんでもあったようで、僕は奥さんの席を奪ってしまった。この仕組みの椅子取りゲームっぷりを可視化されて嫌な気持ちになる。コツを掴んだ気になった僕はそのまま奥さんの分も、これまた十五回目くらいのトライでようやく予約に漕ぎ着ける。けれども奥さんの方が日程が後ろで、間隔の空きかたもちょっと微妙だった。できることなら僕と交換したい。先に奥さんの番号でトライすればよかった、と思う。ひとりで反省会をしていると奥さんはそれは無益だ、と言い、であれば気持ちの精算のためにお使いを言い渡そう、とチョコレートを所望されたので僕はコンビニに行く。コンビニには目当てのチョコレート──明治の冠詞のやつ──はなく、スーパーまで歩く。せっかくなのでお惣菜コーナーに常温で陳列されるマリトッツォも買ってみる。録音で話してからやっぱり食べたかったのだ。それで帰ってコーヒーを淹れておやつタイム。スーパーのお惣菜コーナーのマリトッツォはただのクリームパンの味がして、あきらかに偽物だった。釈然としないまま、こんなもんなのかもしれないが、こんなもんではないのかもしれない、とよりモヤモヤが増した。
数ヶ月ぶりに夕飯を作る。バサのアクアパッツァ、フライドポテトを作って、余力があったのでセロリとにんじんのバタースープもこさえた。奥さんの退勤を待ちながら日記。