朝ごはんを食べるとさっそく散歩に出かけた。今日も過ごしやすい天気だ。ずっとこのくらいがいい。先日のデートで千駄木から西日暮里へと歩く道で、光も風も塩梅が最適で、あまりの幸福感に涙ぐんでしまった。こういう散歩の当たり前のようなすばらしさを、ずいぶん忘れていた気がする、そう言って奥さんの手を握る力をほんのり強めた。当たり前の顔をして外出して、季節の移ろいを全身で浴びて驚きたい。そういうのを忘れてしまうとあっという間に頭でっかちにしょげてしまう。
駅前の本屋の雑誌コーナーを確認すると「こちらの商品は本日発売です!!」という吹き出しの形のポップとともに「文學界」が面陳されている。よしよし、と思って保存用に一冊買おうかと思ったけれど、それはなんだか機会損失な気もして、この街の誰か知らない人にうっかり読まれてほしいと思ってよした。『ルックバック』を買って帰る。
今日は『ランド・オブ・ザ・デッド』をもう一回再生しながら──レンタル料を払ったから貧乏性で──『ゾンビの小哲学』を読んでいた。私たちがゾンビに惹かれてしまう理由は、ゾンビが私たちとかけ離れた存在だからではない、むしろゾンビがあまりにも私たちに似ているからだ。
フロイトは心的外傷を、ある出来事が心に不法侵入することと定義した。また、彼の考えでは意識とは、さまざまな刺激からの防御という重要な機能を持つものである。人間はあらゆる物事に対して反応するわけではなく、実際には、思考や身振りのある一貫性やまとまりを保つために、世界の刺激のかなりの部分を無視しているのだ。フロイトはつぎのように雄弁に語っている。「生きた有機体にとっては、刺激保護がほとんど刺激受容以上に重要な課題である」。無意識は、意識を横切る方法を──反復によるのであれ力ずくであれ──なんらかの仕方で見出したもののみからなる。意識は、内面の平衡を保つために、壁あるいはフィルターとして働く。この壁を乗り越えるショックは 心 に傷跡を残すだろう。フロイトが言及する、戦争でトラウマを負った者というのはおそらく、こうした考えをエピナル版画風に表現した形象である。彼は、あまりにも大きな、あまりにも強い波にのまれて砕け散ってしまったのであって、つまりその心が「刺激保護の破綻」をこうむったのである。こうした暴力によって、精神がひょっとすると永久に打ち砕かれることで、世界から影響を受ける能力が大部分切断されることで、トラウマを負った主体はいまや、外的世界に対して広く無感覚になってしまったことがわかる。主体性の溶解と新たな経験の感覚不能とは、フロイトにおいては対をなしているのである。
マキシム・クロンブ『ゾンビの小哲学』武田宙也、福田安佐子訳(人文書院) p.67-69
「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」においてヴァルター・ベンヤミンは、フロイトの論理を、近代性のショックについて考えるためのより一般的なモデルとした。たとえテロや戦争といった暴力行為を伴わないとしても、近代性は、フロイトの心的外傷の作用にも似たショックの連続を主体に課す。これは主体性を動揺させ、次第に世界や新たな経験に対して無感覚にする。世界のリズムと絶えずぶつかることによって、主体がそれに慣れてしまったのだろう。「意識がショックを容易に受けとめられるようになればなるほど、このショックがトラウマの作用を及ぼすおそれは少なくなるのである」。
これは重大な帰結をもたらすことになる。意識の壁を次第に高くすることによって、心的外傷が記憶までいたることは少なくなるだろうが、同時に、経験もまた記憶までいたることが少なくなるのである。われわれは、より忍耐強くなるがより貧しくなる。より丈夫になるがより空虚になる。
近代以降の資本主義と個人主義を理想として築かれてきたこの社会は、私たちを傷つけるもの、脅かすものを遠ざけるための壁を高くしていった。おかげで僕たちは安全な場所で、安心し切って膨大な刺激を享受することができる。しかしその刺激は、経験として自身の糧となることもない。ものすごい速さで到来しては虚しく去っていく刺激は、僕たちに何も痕跡を残さない。夥しい刺激にさらされて、そのうえ何一つ積み重ねることもなく、僕たちはより忍耐強くなるがより貧しくなる。より丈夫になるがより空虚になる。
はー、ゾンビは面白いなあ、と思いながら第二の散歩。あすの会場行きのバス停の場所を確認に行く。思っていたところになくて、確認に出てよかった、と思う。
「文學界」をつまみ読みして、やっぱり僕は面白いな、と太々しく思う。対談を読んだ奥さんは、売り物になるくらい話が面白い人ってすごいねえ、私は売り物になるほどのお喋りができる人と暮らしているのに、最近なんだか話が弾まない、としょげてみせる。文字起こしすれば普段のおしゃべりもわりあい面白いとは思うけれど、つねに売り物になるくらいのことを話していたらすっごく疲れそうだなとも思う。けれども奥さんが言っているのはそういうことじゃないだろう。今はしょげやすい体調になる時期でもあるし、もっと楽しくお話がしたい、という気持ちはわかる。僕も奥さんとたくさん面白おかしくおしゃべりがしたいが、これだけ一緒にいると目新しい話題はお互いの世界観の根幹を揺さぶるような話題ばかりで、カロリーが高い。だからなかなか踏み込めない。最近奥さんはアンスタの話を聴かせてくれる。僕はお礼にゾンビの話をする。特に噛み合わないからお互いに言いたいことを言ってるだけで、そういうのはいつもやってる。ここでいま欲望されているのはもっとなんか、「文學界」に掲載されるようなやつだ。
「文學界」をTwitterの友達たちがみんな買ってくれていると錯覚するような一日。わざわざ買って、さらにツイートまでしてくれる人はほんとうにすごい。嬉しい。その様子を見て奥さんは、なんだか少年漫画の最終回みたいだね、と愉快そうだった。その通りだ。つまり、──俺たちの戦いはこれからだ!