社交しようぜという機運が高まってきており、『社交する人間』を読み始めた。
(…)ジンメルのもっともみごとな記述は、社交のなかでの恋愛の変質について見いだすことができる。本来の恋愛は当然、異性の獲得を目的とした行動であって、それを駆り立てている動機はエロティシズムである。しかしそれがいったん社交の世界に持ちこまれると、この最終目的は断念されて、男女の心理的な駆け引きが独立して楽しまれることになる。エロティシズムはコケットリーへと変質し、終わりのない誘惑と拒否、賛仰と謙虚、魅力の演出と慎みの演技が繰り返される。やぼな誠実より優雅な嘘が尊重され、真情の吐露よりも口説の機知が称賛される。こうして愛は二人の異性の閉じられた関係から放たれ、艶やかな気分として一つの社交界の全体を包むことになるのである。
面白いのはジンメルのこのコケットリー論が、おそらくは偶然ではなく、日本の九鬼周造の「いき」の美学を思わせることである。九鬼もまた江戸吉原の社交を観察して、そこでエロティシズムの遊戯化が称賛されていたことを発見した。遊里の目的は端的に男女の遊興であるが、客があえて性的な満足を先送りし、会話や芸能や詩文の鑑賞に時を過ごす態度が「いき」と呼ばれる。「いき」な人間はあえて誘惑の近くに身を置いてそれに耐え、放埒と慎み、好色と無関心というあい反する心情を拮抗させる。そしてこの両者が危うい均衡を保つと、その微妙な緊張が彼の魅力となって放散され、一つの気分として社交界をまとめる紐帯となる。ここでも男女の閉じられた関係が拡大され、趣味を同じくする仲間の緩やかな一座が開かれるのである。
こうして生まれた社交世界のなかに生きると、ジンメルによれば人間はさまざまな幸福に恵まれることになる。功利的な目的や信条にもとづく衝動から解放されて、人びとはおのずから中和された穏やかな感情に包まれる。さらに彼らは個人が集団を自分の手段にしたり、逆に個人が集団の手段にされたりする関係からも解放される。人間が互いに他人を手段化するのは、もともと自分が一定の目的に奉仕していて、自分自身をもそのための手段にしているからである。そういう目的がなくなり、集まることそれ自体が目的になった以上、そこでは人びとは互いに利用価値がないという意味で平等になる。一人一人が本来の尊厳と自由を回復し、自分自身の主人となって対等に他人と協調することができるだろう。
山崎正和『社交する人間』(中公文庫) p.47-49
〈社交世界のなかではすべてが遊戯であるから(…)遊びの世界ではルールを守ることは楽しみの一部である〉。しばしば現実の道徳律より厳しいゲームのルールを〈守る苦労がそのままゲームの面白さだといえる〉からだ。〈行儀よくふるまい他人を思いやり、主人として客としての義務を尽くすこと〉を各々が自発的にめざす、〈道徳そのものが遊戯化された〉社交においては、〈個人の自由と全体の調和が自然に両立〉するだろう。以上のような、ジンメルのいささか理想化された社交論は、第一次世界大戦のさなかに書かれたことを鑑みるに、痛切な社会批判としても読むことができる。
あけすけな欲望の達成のために他人を手段化するというのが常態化しているのがSNS・マッチングアプリ以降の社交空間であろうと思う。そのような苛烈な相互手段化は、〈もともと自分が一定の目的に奉仕していて、自分自身をもそのための手段にしている〉事態の深刻化に他ならない。誰もが簡便かつ迅速な目的遂行のために、自発的にタグを引き受ける。自己を効率的に伝達形な形に圧縮するために、AIによって要約可能な素材として振る舞うことへの抵抗も弱まっていく。そのような現在、〈互いに利用価値がないという意味で平等になる〉場をどう作れるか。そういうことにずっと興味がある。いまじゃほら、こうした益体ない日記でさえ、なにかしらのデータとしてマイニングされちゃうわけだから。
とうとう『オブラ・ディン号の帰還』をクリア。奥さんと二人でああでもないこうでもないとゲームするの好き。桃食べた。
