Fountains Of Wayne、Rage Against the Machine、Gabriels、Big Thief、The Weather Station。
本日の読書用プレイリスト。最近読むよりもEXTELLA や『がっこうぐらし!』を優先しがちだったので、アルバム単位で音楽を流しながら、聴覚を一箇所に固定して、目を本に向かわせることにした。『働くことの人類学【活字版】』はポッドキャスト版をわりあい真面目に聴いていたんだなあということを確認したというか、なんなら文字で読むよりも耳で聴いた方が記憶に定着するのかもしれない。読みはしたものの、当たり前だが、ぜんぶ聴いたことのある話だった。ただ本の形でシリーズを一望するように読むと読む側に生起する問いの質も変わってくるようで、僕は個人の主体性と個々人間の信頼──あるいは信頼を前提としない共生のシステム──について考えたいのだな、と確認できた。非西洋圏のラディカルな個人主義についてもうすこし掘ってみたいところ。あと僕はやはり久保明教の考え方が非常に好きだ。小鯵のムニエルに「わかりやすく」収斂させていい話ではない。他者──僕はこの日記でもひろく「私」以外の事物全てという意味でこの語を使用している──の他者性へのスタンスだと、柴崎友香との共鳴が強いようで、この二人との対談に本編を挟み撃ちさせる構成にぐっとくる。簡単に他者に共感するのではなく、違い、そのわからなさを前に驚き、据わりの悪い思いをそのままにしておくこと。
夕食後、TRUMP の無料配信を観ながら『反逆の神話』も読み終える。非常に真っ当な本だった。カウンターカルチャーに僕は特に一〇代を通じて長いこと惹かれながらも、ナイーヴに「反逆」のポーズを取るカウンターカルチャーのプレイヤーにはある種の幼稚さや実効性のなさを感じてもいて、そのあたりは当然15年も前にここまで簡潔に言語化されていたのだな、と納得するような本だった。僕自身、ノールール以上の不自由はないというスタンスを取っているので、ルールの漸進的改正のほかに道はないのだと思う。例えば選挙が近づくたびに思うのは、瑕疵がある実際の選択肢を、完全無欠な理想とは違うからと放棄するのはあまり合理的でもなければ、この世をよりマシにしていこうという実践としても有効性に欠けているということだ。ゴミからよりマシなゴミを指し示すこと、より有害なゴミを取り除くこと。そういう特に愉快でも華やかでもない実践のひとつが選挙なのだ。
TRUMP は村山ちゃんが夏組リーダーに対してコブラちゃんを見るような目線を送っていた。初舞台とのことだがこの頃から発声もしっかりしているし演技体もさほど変わっていない。対して志尊淳は声が全然出てなかった。もとから映像サイズの演技なのかもしれない。