2021.12.20

今朝は寝坊気味。在宅なので起き上がってすぐに出勤となる。出勤後の休憩時間で郵便局へ。スーツケースを引きずっていくのだが、久しぶりに新しいスーツケース──通称ゴロゴロ──でなく古い方を使ってみると使えたものではない。これはもはやズルズルだ、と命名すると奥さんは楽しそうに笑った。気持ちのいい笑い声。レターパックが足りなくなってしまったので二つ追加で買って、その場で奥さんが梱包してくれる。ズルズルから取り出したいくつものレターパックやゆうパックを受け付けてもらい、さくさくと完了。奥さんがいなかったらこんなにスムースにできなかったというか、先週の慌ただしさに凹まされて今週中の発送さえ危うかっただろう。ほんとうにありがたい。しかも奥さんはほとんど趣味のように発送業務をいつの間にか僕から取り上げて好きにやってくれている。それがまた嬉しい。楽しいからやってくれているだけであって、楽しくなくなったらやらなくなるだろうというのが頼もしい。「浮気対策として浮気相手と仲良くなっちゃうたちだから」と嘯きながら、柿内正午としての時間にも欠かせない仲間の位置に収まってくれているのが僕は嬉しい。だからこそお菓子などでしっかりと働きに対するお礼を返していきたい。ヘルシーな関係はヘルシーな相互依存から。

先週はたいへんだった。名古屋でのイベントからの東吉野村訪問、ふたつのクリスマスパーティー、荻窪への納品。今日も労働日ではありつつも、すこしほっと一息なところがあるらしく、どっと疲れが自覚され眠たくて仕方がない。頭もぼーっとしてあんまり動かない。諦めてほどほどにやる。奥さんは顔がひりついて赤みもあるということで皮膚科に向かった。部屋でぼんやりしている間に、諸々しそびれている告知でも頑張ってみようかとTwitterとInstagramにどんどこ投稿していく。こうしていっぺんにわーっと出すのは悪手だろうか。まあなんでもいいや。たくさんの耳目を集めてくれたらいい。自分の参加したものが盛り上がると嬉しいのは当然だけれども、じつは自分が関係していないものでもどんどん盛り上がればいい。自分で本を作って出すようになって感じるのは気前のよさの大事さだ。僕はせめて良き読者として、いいと思ったものはどんどん広めていきたい。自分よりも注目されていたり才能があるからといってやっかんで黙っていても誰もいい思いをしない。べつに僕より人気な人が増えたとしても僕が人気になれる可能性が減るわけでもない。むしろ皆どんどんビッグになって僕をフックアップしてもらえたら得さえある。だから僕みたいなへなちょこでも、気持ちとしてはフックアップのような気持ちで、いや流石にそれは嘘か、とにかく「ねえねえこれ見てー!」みたいな気持ちでどんどこ紹介していきたい。わざわざこんなことを書くのは僕は人並みに嫉妬深いからだ。嫉妬というのは特にいいことないのでちゃんと上手に律していったほうが楽しい。僕は理性を使ってもっともっと気前良く振る舞いたい。それに、そんな面倒な操作が必要なことでもなくて、僕は僕が褒められるのと同じくらい、僕が勧めたものが褒められるのが嬉しいというのも本当なのだ。『バーナード嬢曰く。』の新刊をKindleで読みながらますます思う。『バーナード嬢曰く。』は毎回にこにこしちゃう。読んでいると元気が出てきた。

最近最も嫉妬した才能ははまりーという作家だ。『肌寒い丘の上をきみと歩いていく』https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=16210521 という小説がとても面白かった。Twitterですでに感想をまとめていて、しかもご本人に届いているのでもういいかな、と思いつつも、この日記にも残しておこうかなという気持ちになったので以下自分のツイートをコピペする。

『肌寒い丘の上をきみと歩いていく』。現在のSFやホラーは、過去を読み替ることによってよりマシな未来をシミュレートするための方法なのだという趨勢がある気がしている。これは家父長制を滅ぼす物語であり、ヘテロ男性が自らのマチズモとの折り合いをつける物語でもある。なぜ幽霊は白装束の女性ばかりなのか。なぜ怪談を語ってきたのは男たちばかりなのか。自らが虐げてきた者たちの怨みすらも自ら得意げに代弁してみせるおぞましい厚顔さ。家父長制を滅ぼすシスターフッドを男性が描くことの歪さへのはっきりとした自覚があり、そうした居心地の悪さから目を逸らさないで書き切ることの凄み。男性であることの権力性や暴力性について、盲目なまま美化して気持ちよくなるのでもなく、全否定して自己卑下を徹底することでこれまた盲目的に気持ちよくなるのでもなく、自らの男性性のありようを定位できない不安定な塩梅に置き続ける書き方の、一つの達成のように感じた。

蓄音機、カセットテープ、ウォークマン、ファクシミリ、手紙、ラジオ、そして本。今ここにいない誰かへと言葉を繋げる技術は、今ここにいない誰かと、敬意と気遣いを持って人間扱いし合えるような幸福な関係の構築を成すかもしれない。それと同時に、今ここに実際にある他者からの孤絶を深めもする。読むこと、見ること、聞くこと。遠くの誰かを想像すること。そしてなにより書くことは、すぐそこにいる他者のことを人間扱いできないまま、遥か遠くに幻視した誰かのことを尊重するということができてしまう。その悲しさを、燦めきとして、同時に暴力として描いていると感じた。価値判断を一意に確定させることなく、こういう割り切れないところに着地したことが嬉しい。結論を出す小説はつまらない。全貌を把握できないほどにこんがらがったような問いを読み手に残していくのがよい小説だと考えているので。

@kakisiesta のTwitter

『肌寒い丘の上をきみと歩いていく』は僕のように、エドガー・ライト好きだから『Last Night In SOHO』もまあ好きだったけどでもモヤモヤすんだよな、というモヤモヤを吹っ飛ばしてくれる快作だと思うので、ぜひ映画館とスマホをはしごして欲しい。男性が男性のままに男性性に中指を立てることはできる。それは連帯としては不気味で歪なものかもしれない。それでも、ジェンダーを相対化して、ひとりひとりの個人との関係を構築するための一歩なのではないか。

保険証を忘れてしまった奥さんに届けに靴下にサンダルをつっかけてちょっとそこまで歩いていく。思ったよりも寒くない。指先はしっかり冷えたけれど。奥さんは帰りに請求書とレターパックの補充をしてくれた。納品の時に安い方のマスクを一枚使い捨てて、この忘れ物のお届けでもう一枚。今日は疲れを癒すために銭湯に行きたかったので、せめてこの二枚目のマスクを捨てないでおけばよかった。こういう些細な面倒が外出を億劫にする。それでも経験からしてこういう時に銭湯に行っておくと助かる。だからちゃんと行こう。行くんだ。外、寒そうだなあ。

ちゃんと行った。鍵を入れている極小ポーチのポケットに460円ぴったり入れて、小銭が嵩んでいたので行きがけにファミチキ買おうと別のポケットにてきとうにジャラジャラ流し込んで出かけた。タオルを忘れたことに気が付きすぐ戻る。ファミチキ食べて、銭湯。今日の番頭はマスクをしていると斉藤環にそっくりなのだが愛想が悪い。480円。そうぶっきらぼうに言い捨てる。いつの間にかまた値上がりしたらしい。あら、そうなんですね、と内心ヒヤヒヤしながらファミチキのお釣りを確認するとなんとか間に合った。ファミチキを欲望しておいてよかった。それで入る。高いし、おっさんはやなやつだし、失敗だったかな、と思いつつもお湯に入ってしまえば気持ちがよい。日中はムカつきしかしないけど上手い人とのセックスはこういう感じなのだろうか、と考えながら温まる。いい湯だ。しかしお互いに人格を無視した唯物的な性行為というのはどうやって始まるのだろう。映画や小説でそういう描写を見るたびモノとしての行為はさぞ気持ちよさそうだなと思いつつも、自分にはどうやったら他人とそんなことになるのか全く想像がつかない。年寄りの垂れる睾丸や、若者の背中の未着色の彫り物を視界の端でなんとなく捉えていた。帰宅して炭酸水。日記。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。