2021.12.30

推しについて小論を送ると香水を提案してくれるサービスがあるらしく、昨日から奥さんは自分の推しについて言語化しようとしている。「推し 言語化 練習」で検索して出てきたTIPS を試してみる。奥さんは普段の生活の機微についての言語化はきちんきちんとする。それでも好きな舞台や音楽の話となると、エモーションが大きすぎてエモいしか言えない、でも、エモが大きすぎて負担だから言語化して圧縮したい、と苦しんでいる。僕が二度寝している間に草稿を書き上げたというので、午前の遅くに読ませてもらう。きれいに奥さんの言葉になっているんじゃないかと思う。僕も知らないキャラクターじゃないから、すこし話して、これは今日一日がっつり取り組むべきものだなとなり、ひとまず朝食。奥さんに北村紗衣『批評の教室』をおすすめして、さっそく読んでみる奥さんのキリがいいところまで僕も本を読んでいると、やな表紙だね、この人疲れてるんだなあ、と分かられちゃう、と声をかけられる。

能力の主体は、外的な支配の審級から自由であり、誰かに労働を強いられたり、搾取されたりしない。能力の主体は、自分自身の主人であり主権者である。だから、この主体は何者にも従わず、ただ自分自身にのみ従う。この点において能力の主体は、規律社会の従順な主体とは異なる。しかし、支配の審級が無くなることで、[ほんとうに]自由がもたらされるわけではない。むしろ自由と強制は重なりあう。能力の主体は自分の能力を発揮して成果を最大化するために、強制する自由ないし自由な強制に身を委ねている。労働と能力の過剰によって、自己搾取がはじまる。自己搾取には自由の感情が伴うので、自己から搾取する方が、他者から搾取するよりも効率的なのである。搾取する者は、同時に搾取される者でもある。もはや加害者と被害者は区別できない。こうした自己搾取としての自己関係からは、逆説的な自由が生み出される。それは自由に内在する強制の構造に基づいて、暴力へと転化するような自由である。まさにこうした逆説的な自由が病理的に発現したもの、それが、能力社会における心の病である。

ビョンチョル・ハン『疲労社会』横山陸訳(花伝社) p.31-32

プロメテウスのエピソードから始まるこの本も面白い。欠如でなく過剰による心的外傷。外部を否定する免疫の友敵理論になじまない、際限なくガン細胞のように増殖する肯定による消耗。

さえぼう先生のお話はたいへん参考になったらしく、奥さんは作品の概要を説明する時ほぼ全部話したくなってしまうが、じつは一二行の簡潔さで読む方には十分伝わるものなのだよな、ということを納得したようだった。それじゃあ行きますか、と二人とも準備を済ませて近所のサイゼへ。ドリンクバーを頼み、思いのほか外が暑かったので先に冷たくて甘いものを頼む。そして、徐々にほうれん草やブロッコリーからソーセージにリゾットなどと進めていきながら、二時間がっつり奥さんの推しについて語りあっていく。正確には六割くらいは僕が奥さんの推しの話をダシにしてネロちゃまのよさを語っていた。奥さんはそれにツッコミを入れて余計に僕をヒートアップさせたり、触発されて自分の推しの話を整理できたりした。そうか、オタク同士のお喋りって楽しいのかもしれない……、と満足そうだったのでよかった。

駅前で来年の手帳を探す。途中でかわいいポーチと部屋着を衝動買い。ほうぼうで目にしたサニー手帳を見てみたくて、見てみると確かに欲しくなっちゃったので買った。年末に手帳を買うなんて!年の瀬をエンジョイしているみたい! とはしゃぐ。今年はなんだか年末を感じるなあ。なんというか、来年もいい年にしたいなあ、と思っている。すごいことだ。

帰って郵便受けに投函されていたのが来月発売予定の『tattva』の新刊で嬉しい。明日はこれを読んで過ごそうかな。いい大晦日になりそうだ。

DB デヴィッド、あなたはいつも結構ハッピーなやつに見えます。その幸福感は、どこから来るんでしょうか?

DB ぼく自身、すごくよく自問してる。(…)

デヴィッド・バーン「デヴィッド・バーンによるデヴィッド・バーンへのインタビュー」『tattva Vol.4 特集:どうやって歳とる? お手本なき世界で』(BOOTLEG) p.108

僕もいつも結構ハッピーなやつだと思う。でもあとで日記を見返してみるとすごく体調悪そうで愚痴っぽいからそうでもないのかもしれない。でも主観としては、結構いつもハッピーなんだよな。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。