2021.12.31

来年のハイローに向けて予習しておかなければと長らく録画したままになっていた『fff』を観る。はじめての宝塚。僕はこれ、生で観たら幕が上がった瞬間にすてき! って目を輝かせて夢中になってしまうだろうな、と思う。年々内なるおばさまが育ってきていて、綺麗な人間を見るときゃーきゃー華やぐ。僕の内なるおばさまはサリンジャーを読んだときに生まれたのだと思う。十代の僕は『フラニーとゾーイー』を読んでなんだかものすごく、助けられた、と言う感じがしたのだ。たぶん僕は今もどこかおばさまに向けて書いているところがある。『fff』は僕の今年の総括のような話で、オープニングから近代が主題だと示されるし、しかも近代の産物としての心霊まで出てくる。想像以上に面白く観た。

今日は『疲労社会』を読んでいる。生産性しか価値尺度のない社会において人は疲弊する。それは友達を作らない、肯定の過剰の中でかえって刺激に応答することしかできなくなる受動的な状態だ。それに対してハントケの提示する寛容さを誘発する疲労とは、中断を作り出し、自我を緩め、あいだをひらく。

疲弊としての疲労は、肯定の潜勢力の疲労である。それによって私たちは何かを為すことができなくなる。それに対して、私たちに創造的な刺激を与えてくれる疲労は、否定の潜勢力の疲労であり、つまりは無為 [nicht-zu]の疲労である。本来、止めることを意味する安息日は、無為の日である。それは、何かを為すためという目的[um-zu]から解放される日であり、ハイデガーのように語るならば、みずからの気遣いから解放される日である。重要なのは、合間の時間 [Zwischenzeit] である。神は創造のあとの七日目を神聖なものとした。つまり神聖なのは、何かを為すための日ではなく、為さない日であり、使えないものが使えるようになる日である。それは疲労の日である。合間の時間とは、労働のない時間であり、遊びの時間である。それはハイデガーの考える時間概念とも異なる。ハイデガーにとって時間とは、本質的に気遣いと労働の時間である。それに対して、ハントケは合間の時間を平穏の時間として描いてみせる。疲労によって[人々は自我という]鎧を脱ぎ捨てる。疲れた者の長くゆっくりとした眼差しのなかで、決意し確固とした態度は平静さに場所を譲る。(…)

ビョンチョル・ハン『疲労社会』横山陸訳(花伝社) p.90-91

正月にぴったりな本だなあと思う。この時期は弛緩した時間がまだあるような気持ちになれる。空隙に落ち込んだかのような退屈。注意を中断する余白。

これもまた録画してあったおげんさんを見て、グッチ裕三が大好きだなあと思う。

それからhulu に入ったということで『Fate/Zero』を大画面で見る。一昨年に奥さんが見ているのを横ですこし観ただけで子供が理不尽でひどい目にあっていて、不愉快で大嫌いなアニメだった。いま見てもそう思う。でもラスプーチンの依代になるかもしれないから我慢してみる。ウェイバーは可愛い。

Slack の通知が賑やかで、『プルーストを読む生活』が本当に今年のベストに選ばれていたりするみたいだ。はしゃぐ。

天ぷらそばを食べて、これからお風呂。その前に日記を済ませておく。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。