2022.01.05

僕のKindle でさえぼう先生の批評教室を読んだ奥さんはそのまま『ライティングの哲学』も読んでみたらしく、アウトライナーに興味を持ち、いろいろ試行してNotion に辿り着き、好きな舞台の言語化を頑張っている。途中で読ませてもらうと面白く、ああ、この人はこういうことを感じたり考えているんだな、と新鮮に驚く。ふだん部屋着のだるだるした姿を見ている人が、外でピリッとお洒落してよそいきの言葉で話しているのを見るような驚き。すごい、ちゃんとした人だあ、みたいな。

年始のポイエティークRADIO を聴いて、僕はインターネットに書くことというか、文字に書くことに自分の内面が乗るみたいなの、あんまり信じてないんだな、と思う。奥さんの文章もそうだけれど、文字も声もやはり他者なので、そうした道具で表される「私」みたいなものに独自性や固有性というものを考えても仕方がないと考えているらしい。Twitter やブログを個人の内面の吐露のように錯覚してしまうとおかしなことになるというか、ナイーヴすぎる。インターネットに書く文章というのは内面の吐露のようであってもそれは現代社会のコードから制約や影響を受けないはずがないのであって、そうしたコードを無視した書き方はできない。無視して書いているような書き方もまた、コードをあえて無視するという意味でコードとの関係を持ってしまう。とくにインターネットに放たれる言葉というのは、現在の語彙の配置、議論の文脈のうえでしか読まれないので、個々人のオリジナルの文脈だけで勝負したいと思ってもそりゃ無理でしょと感じてしまう。言葉を使う時点で、人は社会性を帯びてしまうので、そもそもオリジナルの文脈というものもあるようでない。言葉とお金は、そこに託された「私」の濃淡に関わらず流通し、意味づけられるということにこそ効能があるというか、むしろへんに「私」を託してしまうととたんに交通手段として使い物にならなくなる。

だからこそ「私」はいくつかに分裂させて、複数運用していくくらいの気持ちでいたほうがいい。自分に一貫性や独自性を求めても仕方がない。というわけで引き続き『江戸のアバター』。『メタファーとしての発酵』と並行して読みだしたから「ニューロ・ダイバーシティ」という言葉が流行語のように思えてくる。アバターで言うと、というか、複数性をもつ世界という文脈で言うと、いまさら「マインクラフト」に興味がある。YouTubeで「ゲームさんぽ」を見たりしてバイブスを高めているが、自分で楽しく遊べる気がしない。ゲーム実況を見る気持ちが初めてわかった気がする。でも、自分でやった方が楽しいだろうな、と言う気持ちは根強いし、「マインクラフト」への関心は自律の面白さだと思っているから、他人の遊びを面白がるだけではやはり限界がありそうではある。はたして。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。