東京は最高気温も3℃だか5℃だからしい。ワークマンのダウンベストやらボロのカーディガンやら着込んでいたらぜんぶ芥子色で妖怪みたいになった。
今日は過活動気味でずっと何かを読んでいた。『江戸とアバター』を読んでいる途中でTwitterを開き、批評周りの不毛な拡散にムカついて思い浮かんだ『イシューからはじめよ』を読み返し、『落語の言語学』をつまみ、気がついたら雪景色。連の一〇項目がかなりいいな、と思う。
私自身は一九八六年に刊行した『江戸の想像力』(一九九二年にちくま学芸文庫)で、「連」という概念を前面に出した。「連」は「隠れ家」とほぼ同義であるが、「複数の人間で構成される」という条件があり、江戸時代の稽古文化全体を意味するのではなく、何らかの創造をする明確な目的をもった場である。私は連の特質を次の一〇項目で説明している。
1 適正規模を保っている。
2 宗匠(世話役)はいるが強力なリーダーはいない。
3 金銭がかかわらない。
4 常に何かを創造している。
5 人や他のグループに開かれている。
6 多様で豊かな情報を受け取っている。
7 存続を目的としない。
8 人に同一化せず、人と無関係にもならない。
9 さまざまな年齢、性、階層、職業が混じっている。
10 個人のなかに複数のわたしがいる。ゆえに多名である。このなかの8にある「人に同一化せず」の「同一化」は俳諧連句における「付けすぎ」のことで、前の句とほぼ同じ境地を詠むことと、前の前の句に戻ることを意味する。俳諧ではそれらが禁じられている。連においては、俳諧と同様の関係が求められる。 「人と無関係にもならない」の「無関係」は、俳諧における「離れすぎ」のことである。付けすぎを避けるために、あるいは自分だけ目立たせるために、前の句のいかなる要素も無視して、自分だけの世界に閉じた句を作ることを、俳諧連句は忌避する。
池上英子/田中優子『江戸のアバター』(朝日新書) p.199-200
連歌というものは前と後に続く句との関係性で意味合いが変わる。拡散されるうちに配置されるコンテクストが変質するTwitter みたいだな、と思う。とはいえ楽しい生成変化には適正規模というものがあり、拡散の規模というか、自閉と解放の程度みたいなものは自分で見極めて調整しておきたい。連という制作の共同体には過去へのオリエンタリズムのような憧憬を持っている。自分は探さず作るもの。いい制作のためにも、分身する「私」が乗るコンテクストはなるべく自分で選んでおきたい。
連のようなアジール。インターネット上の「隠れ家」をいくつか確保しておきたいな、と思い、前々から気になっていたALTSLUM の記事を読んだり、Discord にえいやと参加してみたりした。一年半ぶんロムってみたりするのでまた文章を読んでいる。それを終えて自己紹介などを投稿し、『江戸とアバター』を読み終える。しばらくは漫然と注意を拡散させてしまいそうで、せめて本に集中したいなとTwitter のアプリをiPhoneから削除して、iPad かMacBook からしか見ないようにする。その分iPhone でとりあえず開いちゃうアプリがDiscord に切り替わっていくといい感じだと思う。
奥さんが舞台についての文章を書き上げたということで、電子レンジでミルクティーを淹れて、頭の回転を落ち着けつつ読む。面白い。「オタク」の文章のバイブスがありながらも、安易なインターネットミームには乗るまいという慎重さがあり、全編に理知が感じられる。せっかくだから公開しなよ、と言う。来る人はちゃんと読んでくれて、変に拡散されなさそうな媒体といえば akamimi.shop だった。さっそく奥さんのWordPress のアカウントを作って寄稿者の権限を付与する。アイコンも必要だよね、と奥さんが描いてもらったことのある似顔絵をいくつか検討しつつもあまりに実物と似ていたり、あまり気に入っていなかったりするものだったりしたのでそれらを参考に15秒で僕が描いたものを使うことにした。近日中に公開できるだろうか。楽しみだな。せっかく僕もこうして自分のホームページというか場所を作っているのだから、誰かと一緒に使っていきたい。
お風呂では『イシューからはじめよ』を読み終える。ビジネスの文脈を取っ払ったとしても、思考の整理術としていい本だなと思うから、ふだんビジネス書や自己啓発書を馬鹿にしている人──僕のことでもある──こそ読まず嫌いせずに目を通してみるといいのに、と思う。とはいえ僕は本棚には置きたくないから電子書籍がちょうどいい。
自分の運営しているというか作りっぱなしているというかのDiscord サーバーで教えてもらった寅さんの浪曲を聴きながら日記。浪曲との相性が非常にいい。ラジオサイズであるのもちょうどいいみたい。全作聴いてみたくなる。