月末が月曜日だとなんだか騙されたような気分になる。
昨日届いた校正を確認していると、散髪のような気持ちよさがあった。粗野な文章に、そっと櫛や鋏を通してもらって、粗野が野趣に昇華される感じ。こうしてみると僕はリズムや見栄えにはある程度無頓着だけれど、複数のコンテクストから選び取り、ごちゃ混ぜにすることによって際立つ語彙の異物感にこだわっているんだなあ、だとか、自分の癖が明らかになるようでそれも面白い。
今日はポッドキャストの配信日。ゾンビというニッチな題材に特化しているためにいつも初動が鈍い感じがあるけれど、毎回かなりいいものになっているので宣伝を張り切る。Twitter に以下のような文を投稿した。
突然ですが、僕のやっているポッドキャスト・ポイエティークRADIO の名物企画「雑談・オブ・ザ・デッド」のお相手であるRyota さんを褒めることを通して、この番組の宣伝及び柿内の自画自賛を行います。
Ryota さんの素敵なところは着眼点の精確さや解釈の面白さはもちろんなんですが、そうした高い言語化能力が基本的に「面白がる」ことに全振りされているところ。盲目的に褒めるでも貶すでもなく、一個の作品内に輝くところとモヤモヤするところを両方ちゃんと見つけて、そのどちらもを楽しそうに語る。批評的な鑑賞の仕方というか、触れた作品について自分で解釈し言葉にするという最高の遊びは、どうしても駆け出しの頃は「正しさ」やトレンドといったものさしを一つだけ持ってきて断罪したりジャッジしたりというやり方に陥りがちです。でも、批評的態度というのは作品に託した自分語りでもありつつも自分よりももっと大きなものに遭遇した時の「なんかわかんないけどすげえ!」という興奮を、丁寧に点検し、共有可能な形に再構成することで、誰かと分け合うことができうるものでもあります。
人懐っこく、どこまでもばらばらな個々人の世界観を見せびらかし合うというあり方の方が、一意に決めた「正しさ」の共同体に集って頑固になることよりも、僕は好みですし、基本的に成熟したやり取りというのはそういうものだと思います。
ゾンビ映画を始めあらゆる映画って基本的に今の「正しさ」のものさしだけで観ると「最悪」以外のなにものでもないものも多いんですが、Ryota さんや僕のように別のものさしを何個も持ってきて、面白がりポイントを探っていく態度は、なんというか、かなり陳腐な言い方ですが、友達を増やします。友達を増やすのって、孤独を保つことと同じくらいに重要で、それは馴れ合うことではなくて、むしろ苛烈にお互いの解釈戦略をぶつけ合うための関係だと考えています。『ゾンビーズ』という映画も、そういう映画でした。さあ、『ゾンビーズ』を観てポッドキャストを聴こう!
以上、ツイートより引用。こうして改めてコピペしてみると、Twitter で読む分量ではない。このツイートの後、四時間が経っているが、再生回数は2増えた。武塙さんの感想がいつも嬉しい。このためにやっているとさえ言える。
ただゾンビ物を見ているだけじゃもしかしたらわからない(盛り上がるとか面白いとかそれだけでも全然いいけど)その構造や真意や作り手が影響を受けてきたもの、伝えたい事、好きだからやりたいスプラッターとか死に様とかそういうことをひとつひとつ丁寧に誰かが話すのを聴くという超贅沢な時間だった。
https://twitter.com/MaikoTakehana/status/1488041207355691009?s=20&t=vbkEkDHTiutXmmtwpyKJOQ
作品は、観ている間にしかほんとうにはないのだけど、あとから感覚を思い出しながら、丁寧にほどいていくのは、また格別に楽しい。そこにはもうほとんど作品そのものは残っていないかもしれない。でもそれでいいというか、僕は特に小説はあらすじは完全にどうでもよくて、読んでいる間にいろんな考えや記憶が自分に到来するのが楽しい。そういう自己というものやこの体の固有性を思い出すための装置として捉えているふしがあって、映画もそういうところがある。作品そのものになんて触れられないよ。他者に触れることなんて、厳密には不可能だ。それでも他人のなにか重大な部分に触れたと確信してしまうことはあり得るし、その錯覚はとても尊い。