2022.01.10

雪がすごいとのことで、打ち合わせなどをリモートに切り替えさせてもらう。そんなに降らなかったけれど、夜になって降り出した。

今日は伊達聖伸/アブデヌール・ビダール編『世俗の彼方のスピリチュアリティ』を読み終える。大学生の頃、真木悠介の『気流の鳴る音』を読んで、本というのは「理性」すらも相対化し問い直すことができるんだ、と衝撃を受けた。その衝撃を思い出すような一冊だった。ミシェル・ド・セルトーはやはり格好いいな、と思う。「他者の声を殺すことなくすくい上げる社会的言語活動とはいかなる言語活動かを問おうとするセルトーは、異議申し立てのパロールか、既成秩序のエクリチュールかという二律背反を拒む」(p.223)。 パロールは既存のエクリチュールを揺るがし、裂け目を作る。しかしそうしたパロールもまた、すぐにエクリチュールに回収されてしまう。日本語訳。日々の人々の理屈立っていない言葉は、記述される既存の制度を揺るがせる。けれどもそうした声もまた、書かれ、体系的に整理され、秩序立った制度の中へと回収されてしまう。書くという権力。セルトーは書かれながらも制度化されきらない、テクストから滲み出るテクスト以前の声に耳を澄ませようとした。それは、記述から漏れ出るものをこそ記述しようという、あまりにも無謀な試みに思える。その無茶がいい。ビダールの思想もまた無茶だ。世俗と宗教を媒介する「あいだ」としてのスピリチュアリティ。日本にはそもそも宗教と世俗の区別がもともとあるようでないような気もするし、だから両者の中間領域というのがイメージしにくい。そもそもスピリチュアリティという言葉自体が資本主義的な価値観と魔合体を遂げてしまっていて、なかなかフラットな概念として捉えづらい。とはいえ、近代の行き詰まりは、その根幹にある「理性」の脱神格化なしには乗り越えられないという直観には強く頷く。理性による明晰さの罠に気がつきながらも、コントロールされた愚かさで理性的な知の運用を行うこと。

Ryota さんのツイートで、『プルーストを読む生活』がブックオフで発見されたことを知る。「外国文学の研究」の棚にあるらしく、笑える。隣のツヴァイク『人類の星の時間』を読む機運が高まる。自分の本とブックオフで遭遇するのはちょっとワクワクする。理想は何十年か後に、格好いい古本屋の棚に佇んでいること。それまでは、新刊書店に並んでいるのがいちばんいい。

そういえば、自分のリトルプレスがメルカリで売られているのを見ると微妙な気持ちになる。リトルプレスをメルカリで売られるの、なんかすごいやだ。「本」扱いされてない感じがあるというか、弱いものが弱いものから掠め取っていく感じがあるというか。他人の手作りセーターを転売するような、すごくやな感じだと思うんだけど、この感覚が的を得たものかどうか自信はない。本のいいところって、その伝達速度の遅さゆえに「いま」の文脈や、市場の価値判断から脱落しうるところだと考えている。古本屋の棚はまさにそうした脱落したものたちの自由さが発揮される場所なのだけど、メルカリはどうしたって「いま」の市場価値の文脈しかない世界だという認識なのかもしれない。ブックオフのような新古書店だって、「いま」の市場価値の文脈しかない世界じゃん、とか、かつてお金のなかった僕のような人にも居場所を提供してくれたブックオフに感じていた恩義や安心を今の人たちはメルカリに抱いているのかもしれないとか、思いはするんだけど。メルカリには具体的な場所があるわけではないし、あの汗と雨とインクの臭いがしない。場所というのが大事だ。思想において相入れない人とも、物理的に隣り合うことはできてしまう。そのすごさ。

この日記の『世俗の彼方のスピリチュアリティ』の部分はPCで書き、残りの部分はツイートのコピペ、そしてお風呂に入りながらのiPhoneでの追記なのだが、同期がうまくいかなかったらしく、PCで書いた部分がごっそり消えた。なんとか更新履歴は拾えて、しかしNOTION の無料版だと復旧はできないとのことで、履歴の確認画面をスクショして、それをGoogleKeep でスキャンして文書化して再びNOTION にコピペするという謎の手間をかけて復旧した。徒労感。僕はかなり勢いだけでものを書くが、だからこそ再現しようと思ってもできないのだな、とわかる。一度書いたことを、そっくりそのまま書き直せるというのは、僕にはできそうもない。こうして復旧していてすでに自分の書いたものが他人のようで、面白いこと書いてんなー、と感心したりする。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。