同居人の朝は早い。七時前──僕にとってそれは「深夜」だ──には家を出ていくのだが、たまにクローゼットの扉の開閉や、慌ただしく廊下を往復するドタドタした足音で目が覚めてしまうことがある。そうすると音と音未満の振動をついつい追いかけてしまい、同居人が出ていくまで眠れなくなる。だから家を出ていくのをじりじりと待つような形になるのだが、耳栓をするとなんとかなる日もある。今日は五分程度ずっとキッチンの方からなにかを作業台にトントントントンと叩きつけるような音がしていて、これは耳栓越しにも振動が伝わってくる。これはきついな、と思いながらじっと耐え、収まってようやく再び眠ることができると、そのまま昼前まで寝てしまった。しかしあの音はなんだったんだろう。キッチンからというのは錯覚で、上の階からの音かもしれない。とにかく弱っていると音に敏感になる。同居人や奥さんの何気なく立てる音にいちいち弱る。自分も同程度にうるさいはずなので、わざわざ言うほどではない、と思いつつも、つらいときはつらい。静かに暮らしたい。こういう思いを、いま、バチバチと音を立てながらタイピングしている。
午後は銀行、コーヒー豆、スーパー。遠回りしつつ六千歩歩く。帰ると奥さんがハンバーガーをご所望で、再び家を出る。そういうわけで朝はひよこ豆のスープと今川焼き。昼はマクドナルドのバーガー二つとナゲット一箱。夜は和風シチュー、そら豆とエビのサラダ、かぼちゃサラダ、春雨。筋肉は休める日。50.2キロ。
一日わりとまじめに仕事をして、くたびれる。休憩時間に読み出した『踊る熊たち』が面白い。見世物にされていた熊たちは、保護された先の自然公園で、自由を重荷に感じることがある。そんなとき、熊たちは再び後ろ足で立ち上がり、踊り出すという。自分たちで自分たちの生活に対処しなくてはいけないという自由の重荷をおろしたいという一心で、気楽な奴隷状態を懐かしがるかのように。ルポルタージュの気分だったのかもな、と思いながら、熊や熊使いの話を聴いていく。熊使いたちから熊を「救い出し」、自由な熊園に保護するための職員は、熊へ注ぐ敬意や優しさのほんのひとかけも熊使いであるロマたちには与えようとしない。「正直に言うと、熊を引き渡した後の彼らの生活に興味を持ったことは一度もない」。人間より熊の生活の改善を願う気持ち。それはわからなくはないが、わかってしまいそうになることに、なんだかやるせない気持ちになる。
退勤後は『ラーエル・ファルンハーゲン』。ずいぶん長くこの本と付き合っている気がする。アーレントの憑依芸パートは終わり、ラーエル本人の手紙や日記の抜粋が続く。もうそろそろこの本も終わってしまうな、と思うと寂しい気持ちになる。しかし、日記や手紙が本にされるのってどういう事態なんだろう。ラーエルの場合は死後の発掘でもなく、いくらかは生前から出ていたらしい。僕が言うのもなんなのだけれど、よくわからない。
(…)望むらくは、あなたも退屈しておられますように。つまり落ち込みもせず、太平楽にもならないこと、そして、これもまた自分一人で引き受けねばならないということです。あなたはきっとそうしておいでですね。わたしもです。本を読みます、そうしているとなにか思いつくことがある、これはなかなか楽しいことです。可能ならば──なにか得るところがあるなら──劇場へも行きます。できればまずまずの人たちに会いもします。思想、思索、着想をますます愛するようになっています、自分にそれらが乏しくなってきたと思うとなおのこと。それらはわたしをおおいに楽しませ、つよめてくれます。すっかり修繕して癒してくれるのです。ですからどうぞ、わたしたちにお手紙をください!(…)
アーレント『ラーエル・ファルンハーゲン』大島かおり訳(みすず書房) p.295
奥さんの元気がなくて心配。