2022.03.24

一日作業日。「雑談・オブ・ザ・デッド」の原稿整理の自分のパートを進めていく。あいまにDiscord のセルトー談義に横から参加してみたり、slack での連絡を行ったり、あっちこっちに気を散らしながら、どの散らし先でもひたすら文字を書いていた。

「雑談・オブ・ザ・デッド」の原稿整理が終わった途端、ヤッター!と叫んでいて、そのまま体は喜びの小躍りを始めたので、ああ、だいぶプレッシャーだったんだなあと気がつく。自分で好き勝手に作ったり、もとからある日記を組み立てるのは簡単だけれど、テープ起こしから共同で誰かと本を作るというのは、僕が「やーめぴ」といえばやめられるものでもないので、絶対に完成させるんだという気合が入る。それで、自分のできることはしっかり早めに終えねばという気持ちがあるのだろう。とにかくあとは組版してふたりで最終チェックするだけで、いや「だけ」ってほどまだ煮詰まってはいないな。でもとにかく少し余裕ができた。

気がつけば柿内案件をふたつもみっつも並走させていて、これはただただ自分が勝手にやっていることなのだけれど、だいぶ大変だし、これを生業としてやっていくのは無理に近いな、と改めて思う。いまやっているものを無事やり切ったとして、手元に利益が残るとしても数万円で、月給に換算すると数千円にもならないかもしれない。

ちょっと息抜きに、とセルトーを読み始める。図書館にあったからよかったものの、いま買おうとするとバカ高い。ちくま学芸文庫にはぜひ全著作の復刊をなしてほしい。

それは意識する、発言するだけで、実際の占領や権力の掌握ではない。欠如をあばき出すことによって、パロールはある仕事をさし示す。とくにパロールは、今日われわれの組織全体に関係ある任務をあばく象徴的行為である。パロールをそれ自体で有効だと思うことは、それを事物とみなし、一種の魔術によって諸勢力を結びつけ、長談義を労働の代りにしようとすることであろう。だからといってパロールは無意味だと結論することは思慮に欠け、諸関係の組織を一機構によって入れ替え、要するに社会は人間がいなくても機能できると仮定することであろう。

ミシェル・ド・セルトー『パロールの奪取』佐藤和生訳(叢書・ウニベルシタス) p.10-11

「理屈じゃないんだよ」というのを理屈を突き詰めることで言うのがポストモダンの思想だと感じているところがある。セルトーの問題意識も、とにかく一意に決定できる合理的な帰結というのはなくて、つねにその合理から漏れ出るものがある、漏れ出るもののほうにこそ賭けるのだという態度なのではないか。力の大きさで言えば問題にもならないような微かな差異。その差異にこそ賭けるという態度は、神の存在を知覚することは不可能であるからこそ神を信じるというような、信仰の実践と限りなく近似なような気もしていて、とにかく僕は信仰者としてのセルトーが気になるようだった。綿密な思索の果ての跳躍。

その後調子に乗ってアルバム制作作業まで始めて、こちらも完成させてしまう。結婚してから毎年作っている。六冊目のアルバムだ。写真も日記と一緒で本の形にしておくと振り返るのが楽しい。写真の選定などはほとんど独断で済ませてしまう。奥さんは顔パンパン、などとかつての自分のふっくらさに不服そうで、毎年この制作物をすぐには褒めてくれない。でも僕が勝手にやってることだからいいのだ。

だいぶ過活動気味で、お風呂で意識的にゆっくりする。温まってクールダウンというと変な感じだがそんな感じ。油断するといつまでも興奮しているから、鎮める必要がある。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。