『TUNIC』は奥さんのプレイを横で見ているうちにだんだんコツを掴んだようで、ボス戦などは僕の方が活躍できる場面も出てきて愉快だ。マップの探索もかなり歯応えがあって、全体としてかなり体力を使うゲームだと思う。
週末の作業のために『雑談・オブ・ザ・デッド』の本文データをコンビニに印刷しにいく。ポストには僕宛の荷物が届いていて、ポストに入る買い物の覚えがないのでなんだろうかと思ったが、『うららかとルポルタージュ』の記録集だった。わ、そういえばそんなのもあったなあ、と嬉しい。
出力した本文に赤を入れていく。なんかどうでもいいゾンビ映画流しながら作業しようと『悪魔の毒々パーティ』をアマプラで再生する。ちょうどいいどうでもよさで、けれども思いのほかアイデアが豊富で楽しい画面が多い。まずは本文よりも組版の正誤をチェックするように眺めていくと、思った以上に修正点が多い。ちゃんと確認してよかったというか、こういうのは紙じゃないと気が付けないのって不思議だなとも思う。さらに本の形になるとまた見つけられるようになるから、本の形を試作してそれを読むようにしてミスを拾っていくのがいちばんいい。前回から日記本はそのようにしてチェックをしている。それでもゼロにはできないが、だいぶ拾えているはずだ。何度も何度も同じ文章を読んでいるとだんだん麻痺してくる。これはちゃんと日本語として意味が通っているのか?
僕の喋りは文字にしてみてはっきりわかるが錯綜していて読みにくい。もとから文字であるこの日記も読みにくい。録音も日記も、続けていくとどんどん自分の頭の悪さや話の下手さを思い知る。もっと面白い人間のはずなのに、という自分に対する過大評価は、毎週や毎日の実践を重ねるうちに早々に修正されざるをえない。続けていくうちに背伸びはきかなくなるし、理想は現実的なところまで下方修正されていく。だからか僕はあまり自分の作るものの至らなさや拙さに自己嫌悪や自信喪失に陥ることはない。自分の大したことなさは日々つきつけられるから、これがじっさいの現在地なのだと受け入れるしかないのだ。それでも本を作っているとき、それが佳境を迎える段階でいちど全部わからなくなるタイミングが毎回ある。なにこれ、これはなんのためにやってるんだ? いったい誰が面白がるんだ? というように。けれどもここを乗り越えるとけろっとして、図々しくも自分が一番面白いんじゃないかという気分がやってくることも知っている。制作は、そういう気分の上下の繰り返しであって、上振れするときの高揚感が忘れられずに何度もやってしまう。けれどもその後の下降で実態以上に自信をなくすから、毎回のように上振れするからといってクオリティが向上し続けているかというとそうでもなく、ただただ同じような水準で繰り返しているだけな気もする。でもまあそれでいい。とにかく続けること。またあの楽しさを味わうこと。大事なのはそういうことで、完璧な「完成」ではない。
佐川からの荷物がなかなか届かずやきもきしたけれど21時ちょうどにチャイムが鳴る。ギリギリまでたいへんだ。配達員の声は疲弊していて、もういっそ明日でもよかったのにと手のひらを返すような気持ちになるが届いてとても嬉しい。見田宗介著作集。これから大切に読んでいきたい。