K は英語を聴き取れないのだが、ずっとケンドリック・ラマーの新譜を聴いている。
ラップはいつも、意味がわかった方が面白いんだろうな、と思いつつ、ただ音として享受するから音としてつまらなかったら聴けない。音として良ければ聴いてしまうが、何を言っているのかわからないから全体としての価値判断はわからないままになる。特に「We Cry Together」なんかは意味がわからないとなんとも言いようがない。そういう心許なさがある。
K はしかし心許なさを好んでもいた。
音楽でも本でもそうで、わかっているかもわからない状態で、方向感覚を見失ったまま散漫に歩き続けるということをする。
わかっているという確信がない分、思考はあっちこっちに散逸していくが、K はそれが面白いのだという。
なんであれ、結局は自分の思考を立ち上げ、うねらせ、前へと進めていくようなものがいい作品なんだ。
K はことあるごとに自説を振りかざし、いつまで経っても何かをわかることがない。
とはいえわからなさに居直っていいわけもない。わからないなりに誠実に、何を言わんとしているかに耳を傾けたいとは思っている。というか、わからないなにものかの思考で思考するように読みたいと思っている。
わからない話を自分の都合のいいように曲解していいとは言いたくない。わかろうという態度は絶対に捨ててはいけない。それでもわからないことはある、そういう時に、自分が作品から受け取ったものと受け取り損ねたもの、作品から触発されて発生した思考とは、ちゃんと区別しなくてはいけない。
それがK のギリギリの知的態度だった。
K にとって本を読むというのは、書き手の思考回路に乗っ取られるように読むということだ。だから、読み手である自分との差異をことさら取り上げるような読み方は好まない。自分とはここが違う、なんていうのはわかりきった話だからだ。異なる他者の書いた文章を、自分ごととして読むのではない。異なる他者として、書き進めるように読む。異なる思考の流れに埋没するように読む。まるで自らが他者の思考において思考するように読む。そういう読み方が好きだった。
「だからまあなんていうか」
K はキーボードを打つ手を休めて、顎を上げる。そのままフーッと細く長く息を吐いた。
「もはや怪談文体でもなんでもないよね」
うん、それはそう。