寒暖差がきつい。
賃労働と趣味の仕事とがだんごになり、朝からずっと動きっぱなしだった。
だから夕方には抜け殻のようだった。
三人称で書くこと。実話怪談の他者性を担保しようとすると、人称の選択はおのずと三人称に寄っていくだろう。一人称の怪談が成立するのは、インターネットの掲示板文化によってであるような気がする。書き手の顔が覆い隠されることで、書かれる内容ははじめから複数性を帯びる。
雑誌に寄せられる体験談というのも一人称でありうるが、こちらはすでに編集者やインタビュアーという他者が介在している。実話怪談は一人称の書き手ひとりの経験だけでは成立しない。そこには必ず語りを媒介する他者が必要だ。
複数の声を介したひとつの話。
それが実話怪談の要件であるならば、そもそも日記を実話怪談の様式で書くという試みははなから失敗するほかないものであると言える。
あるいは、本人が怪異との接点をもつタイプの書き手であれば、私小説的な実話怪談もありうるだろう。
けれどもおそらく僕は、そうした実話怪談にはあまり興味が湧かない。
他者の語りを、書き手がなるべく解釈を挟まず再構成すること。
そういう営みとしてこのジャンルに惹かれているからだ。
日記を実話怪談として書くためには、三人称を選択するだけでは不十分だ。
自らを他者として聴き、再構成することはいかにして可能だろうか。
先に否定した「私小説的な実話怪談」にこそ、実話怪談としての日記の可能性がありえるかもしれない。いや、やはりこれは違うだろう。そうではなく、私小説の書き方にこそ、自らを語り手とし、次いで書き手とする手順が潜んでいる。私小説的な実話怪談ではなく、実話怪談的な私小説にこそ手がかりを求めるべきだ。
ぼんやりとしているうちに夜になり、気がついたらこのようなメモが残されていた。