2022.07.10

12時ちょうどに本屋lighthouseに着。関口さんこんにちは。今日はお店番しながら日記を書いて、それをGoogleドキュメントで公開していくつもり。挨拶もそこそこに棚を眺めだしていて、今日は僕の本でなく、ここにある色んな本を勝手におすすめするような遊び方をしたいな、という思いを強くする。『ゾンビ最強完全ガイド』がある! 個人的ゾンビ本のベストだ。『雑談・オブ・ザ・デッド』よりこっちを読んで欲しい。でも、『雑談・オブ・ザ・デッド』も副読本として楽しいとは思う。自分の本をおすすめするというのは、好きでやってることを労働の領域に押し込むような行為に思えて、しかし好きなことで稼いで悪いということもない。『フェミニスト・キルジョイ』を購入。あとでレジ打ちを教えてもらわないと。今日は投票割もあるからオペレーションがたいへんそう。バイト初日の気分だ。開店ツイート用もんの写真は顔を隠すために買いたての本を活用。

関口さんの横で日記を書いていくということは、僕の日記が微妙な嘘にまみれていることをリアルタイムで暴かれていくということでもある。じっさいの時系列としては、『フェミニスト・キルジョイ』を手に取り、写真を撮られ、会計なのだが、面倒なのでてきとうに処理をした。日記は嘘をつき、未来の僕は騙される。そういうものか、と納得する。しかしこう書いておくことで、僕は安易な忘却と納得を許されない。

書き損じや、文章の挿入、入れ替えなどの操作をその場で見られているという意識は、思った以上に指がギクシャクするもので、バカがバレる、と思うが、別に普段の日記からそれは隠していない。ただ、誤字の多さだけは恥ずかしい。それは僕のせいではなく、マックブック野変換の変換のせい。MacBookの変換のせいなので、大目に見て欲しい。書くことよりも、修正の方に恥ずかしさを感じる。これは発見だ。間違えることより、間違いを認める方が負荷がかかる。それを体感する出来事だ。

さて、ずっと書いていたら今日の日記の分量がたいへんなことになるので、一回休み。

(12:31)

Googleドキュメントの共同編集の権限を関口さんにお渡ししてみた。

柿内さんの本文にコメントをつけてみたのだけど、これは外の人にも見えてるのだろうか。Googleドキュメント初心者。匿名○○、というマイクロソフト側の名称設定が、なんとも言えない絶妙さである。逆・動物園感。名もない動物たちにみられている。ちなみに今日はとある大学の学生さんがきていて、卒制のドキュメンタリーを撮っています。お祭り感がすごい。

日記に話しかけられる可能性や、共同編集者に書き換えられる可能性を付与すると、一日を所有する感覚が変化していくようで面白い。いまはまだ段落ごとにそれぞれが書いているけれど、相手の段落に侵食していくように書いていくとまた一層事態が進行していきそうで、それも愉快だ。

手書きと異なり、タイプされた文字は事後的に振り返れば等価だ。僕のような素人の文章と、原稿料が出ている誰かの記事とは、文字の見栄えからすればそこまで大きな差異はない。二人で書くこと。リアルタイムで眺めていれば執筆者のID はわかるが、後からまとめて読む人は相互の侵食の痕跡をどこまで感知できるものなのか。僕はもうわかんなくなる自信がある。

https://yuyauver98.me/spreadsheet-anonymous/ ←匿名○○の謎が解けてうれしい。そう言って関口さんは面白がる。匿名ニャンキャットというレアキャラがいるらしい。虹色で、たいへん華やか。匿名クラーケンとかもある。神話的な? 大の大人がGoogleドキュメントに大はしゃぎしている。なんだこれ、楽しいな、と柿内はにやにやする。という話からなぜかポケモンの話で盛り上がる。「ポケモン 子供襲う」というスポーツ新聞の見出しで深い議論ができそう。ポリゴンショックは、画面の向こうのフィクションが鑑賞者の身体に直接的に影響を及ぼした。架空の動物からの現実への襲撃。スポーツ新聞の見出しは単なるウケ狙い以上の何かを確かにとらえていたのかもしれない。たとえばテレビの観過ぎやゲームのし過ぎによる子供への各種悪影響が当時は相当言われていた記憶があり、それと重ね合わされているとか。ほら、やっぱり襲ったじゃん、みたいな。

匿名の動物たちが出たり入ったりを繰り返している。どうやら自分がどの動物に設定されているかはわからないようで、そのあたりの設定も絶妙でよい。いま、店内では店主と、その横で黄色い帽子をかぶって本を読んだりタイピングをしたりしている人と、その後ろでその様子を撮影している人がいて、それらが特に説明もされないままの状態なので、何も知らずに入ってきた人がどう感じているのか、というのがちょっと気になる。誰ですか?(何をしているんですか?)というのを聞いていいのかどうか、というところでの逡巡もありそう。そういえばそろそろひろこさんもやってくる。おともだちを複数人連れてくる。カオスだ。この状況を説明する方法がわからない。

お客さんに声をかけるという行為は本屋に置いて馴染まない気がして、こちらからなにかアクションをとるということはしづらい。そうなると黄色い帽子をかぶって本を読んだりパソコンをいじる謎の人として店の端っこに居座ることになり、これはこれで本屋の経験を異質なものにしているだろう。ひろこさんとは、誰だろう。僕自身、気がついたらドキュメンタリーの撮影があり、知らない人の名前が日記に記され、戸惑いのなかで、嘘だな、戸惑ってはいない、よくわかんない状況の中でただぼけーっとしている。わりと、いい感じだ。すくなくとも僕は。

喉が渇いてきた。コーヒーも飲みたいが、ちゃんと水も飲むべきだ。外に買いに行くにも覚悟がいる。今日は暑いのだ。うだうだしてたらすごいたくさんの人が入ってくる。ラムネ飲みますか? えっ飲む飲むー! ありがとうございます。いま、「ありがとうございます」の下に赤い波線があって、Googleからそこは「よろしくお願いします」じゃありませんか? と提案された。大きなお世話です。

開店史上最高レベルの人数が店内にいる。数人は並びのカフェのテイクアウト待ちっぽい雰囲気があるが、この混み具合は店主としても慣れない感がある。そわそわしちゃうね。

店内ではテイラー・スウィフトがかかっている。ごきげんだ。ラムネは美味しい。レモネードの訛りとのことで、固形より水が先だ。へえ。

はちたそさんご来店。気持ちのいい買いっぷりで僕のほうが楽しくなってしまう。ドキュメンタリーを撮影している石橋さんと三人でゾンビの話に華を咲かせていると、とびきりの実話怪談を聞かせてもらえる。ドキュメンタリーを撮っていた人がいつの間にか語り手に。実話怪談の採集ができて、柿内さんうれしそう。実話怪談メモを取っている。日記の更新はいったん止まる。

そう、喋りながら日記は書けない。いや、正確には僕は人と話しながら本を読んだり書いたりはできるのだが、夢中になって立ち話に移行するとパソコンもスマホも置きっぱなしだから、じっさいには書かれない。基本的に日記は過去を書く。あるいは出来事を書いて過去にする。だから実況中継のように書き続けていくというのは、それだけでふだんの日記とはいろいろと様子が異なってくる。

Ryotaさんもやってくる。まだ『雑談・オブ・ザ・デッド』は動いてません、と言うと、日記ばっかり書いてるからですよ、もっと周りを見て働きかけなきゃ、とご指摘を受ける。おっしゃる通りすぎる。「Library of the Living Dead」という大学図書館の使用法をゾンビと学べるコミックを教えてもらう。なんだこれ。『ゾンビ最強完全ガイド』をおすすめし、買ってくれた。

この日記はあとですこし全体を整えるべきなのだろうか。それともこのまま出しちゃおうか。おそらくこのままなのだろうけれど、一人で書かずにいるとすこし編集の必要を感じるようだった。書いている時はあちこちに手を入れるけれど、後で読む側はリニアに読んでいくことになる。そこの体感への目配せだけはしておきたいが、なんだかんだ人はどんな文章であれ単線的に読めてしまうもので、読めなさよりも読めてしまうことの方が驚きだ。いま、この日記は七人ほどに見られながら書かれている。僕はクズリ、オクトパス、ユニコーン、ヒョウ、カワウソなどに見守られながら文字を打ち続けている。はじめのほうにいてくれたグリズリーさんはどうしただろう。もしかしたら別の動物に化けていまも見てくれているのかもしれない。見てくれている人は、自分がなんの動物なのかわからないらしい。お互いに、いることはわかるが、誰かはわからない。いや、こちらは僕だということはわかるようになっている。いま読み返してみると、たしかに読めてしまうような気もする。

客足の波は不思議で、一気にわっと空間が埋まったと思うと、気がつけばすーっと落ち着いていく。満ち引きが面白い。何を示し合わせているのだろう。示し合わせてはいないのだけど。一六時になっていまは静か。ふらっと外に出て、同じ並びのラーメン屋さんに引き寄せられる。今日で一周年らしい。めでたい。おいしそうなのでいただくことに。特製中華そばの醤油。お祝いだしチャーシューもつけちゃお。関口さんにもRyotaさんにもなんも声かけないで出ちゃったな、と思うのだけど、この日記が読まれていれば大丈夫だろう。読まれていなかったら、僕は黙ってどこかに消える信用ならないやつということになるし、読まれてたとしても同じことではある。だんだん申し訳なさが募ってきたが、いい匂いがする。期待が高まる。なんか変な時間の食事になってしまった。

おいしかった。Ryota さんも食べに出かけた。僕が今日いちばん貢献したのはたがやの売り上げかもしれない。本を売るというのは、たいへんなことだ。あまりこちらからできることがない。信じて待つ。本屋で声をかけられたいかどうか、僕はいきなりされたらびっくりしちゃう。だから、声をかけてもらえるまでじっと日記を書くしかない。静かに、黙々と。気づいているかどうかはわからないけれど、今日一度も「いらっしゃいませ」を言っていない。というか、普段も言っていないし、なんならいままで一度もないかもしれない。というのは、個人店のような空間は多くの人にとっては「緊張する場所」であるため、店主に見られている/入店したことを把握されているという感覚をできるかぎり感じさせないように、あえて無視(しているように見せて)いる。いつも左耳と左側頭部あたりで来店を察知し、目線と態度は変えずにパソコン画面や本を見ている。挨拶と同時に入店した人にだけなんらかの反応を返す。基本的には会計時にはじめて会話をする、目を合わせる、いや、あまり目は合わせない。ちょっと恥ずかしいから。そういえば、ちょっと恥ずかしいというかなんともいえない状況ナンバーワンが、クレカ決済の承認待ちの間のあの数秒、あるいは十数秒で、エアレジの反応速度の遅さによる不自然な待ち時間の間、こちらもお客さんも手持ち無沙汰になり、かといって何かしらの会話を始めるには短すぎる……というもの。

一七時前に奥さんもくる。茹でタコ。麦茶を差し入れてくれた。奥さんは横で書くのをガン見してくるから匿名の動物にはならない。顕名ニンゲン。新しい閲覧者がやってくるたびに関口さんと二人でおっついにカボチャがきましたね、パンダさんだ、などと面白がるのが楽しい。

カメラを構えること、その場で日記を書くこと。いまこの場では記録の制作がふたつ進行していて、この事態はけっこうそれだけでなにものかだな、と思う。映像と文字。僕が座っているレジ横には定点カメラも据えられていて、このお店の出来事を待ち構えている。僕は僕で、お店で起こる何かしらに反応して日記を書いたり書かないで呆けていたりする。二重の記録。そのまなざしにさらされた店内。これは、なんというか、かなり変てこな状況だろう。勝手にお客さんのことを書くということはなく、いまここに登場している人たちには一言書いてもいいですか、と許可をとっている。カメラもそうだ。実話怪談もそう。書いてもいいかどうか、許可を取る。このプロセスが大事で、あ、関口さんのことは勝手に書いてた。一緒に書いてるからいいか。だめって言われたらじっさいに日記に転写する際に関口さんだけ消えるかもしれない。それはそれでなんだか乱暴な感じがある。公開する日記はこういうところが難しい。今日はMacBookの変換のだめさが際立つな。公開する日記が後悔する日記になっていて、それは、すごくいやじゃん。

十八時からは奥の部屋で『リトル・モンスターズ』をみんなで観る予定なのだけれど、そういえば何を観るのかどこにも明示していなかった気がする。テイラー・スウィフトとゾンビで辿り着ける人はそんなにいないだろうし、そもそもゾンビ映画を観たがる人がそんなにいないということを『雑談・オブ・ザ・デッド』を出してから強く感じる。ゾンビは嫌われ者だ。そうなのか。そうだったのか……。僕は好きだよ。スパイスカレーも好き。奥さんがベンガルの二冊目を見つけていたから、あとで買ってくれるだろう。石濱さんの本もあったが、私はカレーが作りたいので、とあっさり却下していた。目的意識がはっきりしている。読めばカレーが作れる本と、カレーが作れるようにはならない本があり、多くの本は後者だ。『雑談・オブ・ザ・デッド』もカレーが作れるようにはならない。ゾンビのことをちょっとわかったふうにはなれる。しかし、だからどうしたと言われると困る。ゾンビのことをわかったふうになることで、いいことなど特にない。楽しいだけだ。しかし、楽しいだけで充分ではないか? 

日記を中断する際に時間を記載したのは12:31の一回だけで、そこからは断続的に書き継いでいる。この一回限りの時間の記載を消さずにとっておくかすこし迷ったが、残しておくことにした。試しにやってみたことと、それがうまくいかなかった痕跡とをそのままにしておくことで読み返すときの印象が変わるかもしれないと思うのだが、じっさいにあとになってみると読みづらいだけかもしれないな、とも思う。書きながら読み手のことを意識するその意識の仕方は、読み手として文章に接する時とはどうしたってなにかが異なる。読み手は案外いい加減で、書き手ほど注意深く一文を追わないから違和感をさらっと流してしまう。あるいは読み手は予想外の部分で注意深く、書き手も気が付かない細部に拘泥する。渦中にいながらいかに俯瞰するか。本人でありながらどれだけ自分を突き放せるか。そういう試行錯誤が僕にとって日記だともいえる。別の言い方もいくらでもできる。日記はどうとでもいえる。

柿内さんと関口さん、Ryotaさん、そして奥さんの四人で鑑賞会スタート。僕は未見なので、シンプルに楽しみ。ゾンビ映画とは思えないコミカルなオープニング。5歳にはコーヒーは淹れられない。確かに、と思うが、それを判断しているのが当の本人の5歳なのが面白い。こんなに短時間に多くの「FUCK」の音を聞けるのはなかなかない経験だ。僕は再見だけれど、のっけから主人公の兄ちゃんの最低さが記憶以上で笑える。映画を通しての成長が美しすぎて忘れてた。こいつ、最低だ。バスの中でアンプ繋いでるの最高だな……でも絶妙に音がしょぼい……というあたりに主人公の「ダメさ」が表れているような気もする空気が読めない&自己顕示欲強い、しかし絶妙にそれが「弱い」……中途半端で突き抜けられない。気づいたら日記の更新を忘れて見入ってしまった。もう一回じっくりみたい。

ラストまで観て、拍手したくなる。本当にいい作品だ。姉のまなざしに同調してすこし涙ぐんでしまった。エンドロールを眺めながらさっそくみんなでわいわい話す。関口さんが気持ちいい笑い声をたてる。酷いシーンで思わず笑っちゃうのが楽しい。人と見ると声を出して笑いながら観れるからいいな。

本当にしょうもない映画ではあるけれど、真っ当さを失わなかった/手に入れた者が救われる物語だから、見終えたあとに残るのは希望なんですよね。クソみたいなこれまでの社会と、やはりクソみたいな今日の選挙結果だけど、真っ当な人間が希望となる物語を観たことで、あまり絶望していない。

今日の日記は本屋lighthouse店主、関口さんとの共作です。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。