2022.08.04

発売日にいそいそと買って、コメダで、電車で、大事に大事に、溢さないようにそおっと運ぶみたいにして読み進め、それで三分の一ほどだったがいよいよ本腰を入れて読みたい気持ちが盛り上がった『水平線』を今日はfuzkue で読もうと思っていたのだったが、雲行き怪しく気温や湿度も低く、久しぶりに家も過ごしやすい感じだったので布団の上に寝そべったり、抱き枕をいいように折り畳んで座椅子がわりに腰を預けたりしながら家でほとんど読んでしまう。

それで誰かが応答すると本気で信じているわけではなかった。でも、声を出すことってそういうことだ、と重ルは思った。どこにも届かないなら、呼びかけることも、こうして頭に浮かんだことを声に出すこともできない。声を出して誰かに呼びかけるってことは、馬鹿げているとわかっていながらもそれが届くかもしれないってちょっと信じてしまうことだ。

滝口悠生『水平線』(新潮社) p.317

滝口悠生の小説はこうした評言めいた一説に対してただ頷くというか、膝を打つでも、蒙を啓かれるでもなく、ただただ、うん、うん、と頷くところがあって、その感じがいつも気持ちがいい。鋭さがあるわけでもなく、鈍磨なわけでもない、単純な楽しさや、素朴な呑気さが、しなやかに維持されている。それらは、世に蔓延る悲しいことや愉快でないことをないことのように振る舞うことで維持されているのではない。そうではなく、悲しみや苦しさに晒されて、困ったな、と途方に暮れつつも、それでも楽しいほうへと意志する呑気さで、僕はこの呑気さを何度だって見失い、何度だってここに立ち返る。小説らしさとは不穏さや過激さやしかめ面の切実さにあるのだという劇的なものへの誘惑が僕は子供の頃からとても嫌いで、だからこそ保坂和志を知ったときは安心するというか、こういう面白さにもちゃんと位置が与えられているのだと知ったのだけれど、同じような安堵を滝口悠生に感じているような気がする。人が楽しそうにしている瞬間をにこにこと読む、そういうのがいい。

ふとした描写に祖父母の家の近くの釣り堀で遊んだ記憶が蘇る。小学生の夏休みだろう。堀の中にはうごうごと鮒かなんかがいて、生臭い黄金色の団子を針の先につけて垂らすと怖いぐらいあっさり釣れた。竿を上げるまではいいのだけど、ものすごい勢いでのたうつ魚が怖くて触れず、結局つれてきてくれた叔父だか祖父だかに取り上げてもらっていた。恐ろしかったし、得意そうなのは大人の方ではあったのだが、思い出してみると楽しい記憶だ。きっと面白かったろう。そんなことを思い出していたら小説から随分遠くまで考え事が延びていき、気分転換に散歩に出かけた。雷が遠くで聞こえて、雨がちょうど降り出したところだったけれど、なんだかそれも可笑しい気持ちで歩いていった。出先のカフェで二章読み、帰宅して最後の一章を読んだ。ああ、終わってしまったな。

にこにこしていると、奥さんに、そんなふうにごきげんなあなたを久しぶりに見た気がする、と言われ、よく寝た人の顔だね、と目を細める。それに、本もたっぷり読んだからね。よく寝て、たっぷり本を読むと、僕はいい感じの人間になる。だったら毎日そうすればいいのに。知的な楽観と、たゆまぬ呑気さ。僕にとって小説はそのためにある。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。