おニューの帽子をかぶって外に。図書館で本を返して借りる。ニュースレターに写真を載せたいな、という思いがあり、久しぶりにカメラを持って外に出て、ぱしゃぱしゃ撮ってみる。この季節は光がいい感じで、何を撮ってもそれらしい情緒を帯びる。リュックにどっちゃり本を詰めて電車に乗る。
『新しいアナキズムの系譜学』を読みながら移動。初台で降りて、久々のfuzkue 。書見台をお借りして、『異端の時代──正統のかたちを求めて』をセット。チーズケーキを食べながら読み進める。書見台があるとこういうお行儀の悪い読書も格好がつくからいい。『現代人はキリスト教を信じられるか』と『寅さんとイエス』をあいだに併読しつつ、メインは森本あんり。冒頭100ページくらい読んで止まっている『書物としての新訳聖書』で得た聖書の成立過程についての知識がどの本にも登場してきて、ほんのり知っているというだけでもずいぶん頭に入ってきやすくなるものだな、と思う。人々に共有される正統の感覚は正典や教義に先立つという指摘だったり、追放者による洗礼を「違法であるが有効」とする解釈は教会が聖職者たちの恣意よりも超越的なものへの信を優先していた証拠であるというのだったり、ソローへの悪口を通じて現代の「なんちゃって異端」を豪速球でディスっている箇所だったり、随分面白く読んだ。現代は個人主義という神秘主義が蔓延し、他者を批判するときだけ自分らしくいられる手応えを得る「なんちゃって異端」が幅を利かせ、自ら批判の矢面に立って正統を担おうという気骨のある者が不在だ、という著者の嘆きと檄は、『不寛容論』のロジャー・ウィリアムズを思い出させる。部下であるうちは威勢のいいホラがふけるが、いざ自分が上司になると妥協と調整にまみれていく。しかしなんら実効性を持たないがゆえに純度と鋭さを保てる部下の空論よりも、清濁合わせ飲みながら矛盾を矛盾のままに抱え込み相容れないもの同士の共棲をなんとか維持していこうという泥臭い実践の方がまだマシだという気持ちになるのは、僕も立派におっさんになったからだろうか。年々ソローが嫌いになる。なーにが森の生活だ。徒歩圏内にママのいる実家がある坊やのたった二年のままごとじゃないか。今日のスタッフさんは初めての方だったけれど、気持ちのいい接客で、白湯のおかわりのタイミングが完璧で惚れ惚れした。鶏ハムのサンドイッチと龍馬も追加する。十九時前にお店を出る。
日本橋で奥さんと合流。検査の結果は悪いものではなくて一安心。高島屋の新館六階で美味しい蕎麦を食べる。蕎麦豆腐と日本酒も頼んじゃう。天ぷらを分け合って食べて、べボーコーンの青い甘さがとてもいい。べ、ベボー。ベビーコーンね。
帰りの電車で石を全部使って、プロトマーリンは来なかった。清楚系というのは意味のわからない言葉だが、楚々とした雰囲気で性格がクソ悪い色白の人というのはたいへん好みの造形なので、とても残念だ。残念だ、顔がすごい好きなのに、と悔しがっていると奥さんがへえ、とそれこそ北極に吹く風のようなまなざしを向けてくる。フィクショナルなキャラクターというのは僕はいくらでもルッキズム的な消費を楽しめるからいい。そう思っていたのだが、奥さんは呆れたような顔でこう言うのだ。いや、なんというか、あなたの歴代の元カノを知っているからこそ……、ね。
