この日記はNotion で書かれたあと、奥さんが読み、誤字のチェックが入った後にWordPress にコピペされて公開される。いつからかそういうフローになっていて、だからはっきりと第一の読者として奥さんがいる。こうなる前は奥さんも公開された日記を読み、誤字について赤を入れたスクショをSlack で送りつけてきたのだが、これはいちいち手間だし、あとからミスを指摘されるのはあまり気分がよくなかった。今は書き終えたらそのまま奥さんの読む時間になる。主にMacBook で書かれた日記はそのままMacBook ごと提出され、奥さんは読み、修正する。このとき、僕はそそくさと歯磨きの準備をしたりしながら、横目で様子を伺っている。なんであれ、読んでいる奥さんがひとつでもふふっと笑い声を漏らしたらその日の日記は成功だと思っている。
面白い日記を読ませて。
ぼんやりとした一日の終わりにふざけてせがんでくることがある。以前から僕は明確に奥さんを読み手としているけれど、今のフローになってから読み手としての奥さんの存在が一層濃くなったようにも思う。面白い日記が読みたい奥さんは自らおちゃらけたり冗談を連発して、この奇行についても書いていいから、とその日の日記を少しでも面白くしようと作為をはたらかせる。けれども、わかったよ面白おかしい日記を書くね、と言うと、べつに可笑しくなくていい、と応えもする。ここで僕は、奥さんの反応について、笑顔以外に何かが届いたと判断できるものがないことに気がつく。真面目な顔で面白さを感じることもあるだろうし、ぼけーっとしながら読み飛ばしてあとからじわじわ考えが侵食されるという面白さもあるだろう。はっきりと表出するものだけが全てではないし、僕は奥さんがどんな反応をするのか、ほとんどわからないまま日記を書き、読まれ続けている。
書いたものが誰かに読まれるというのはすごいことだな。僕は常に誰かに読まれるという予感を頼りに書いてきたけれど、読んでいる誰かの顔が具体的に思い浮かぶようになってからも、毎回毎回が確信のない、くらがりへ投げかける賭けのようなものだ。
ここまで書いているあいだに、すこしうとうとしていた奥さんが起き上がって歯を磨き出した。わざわざ僕のすぐ隣にやってきて、しゃこしゃこと丁寧に磨いている。そろそろできるよ。できたよ。はい、これが今日の日記です。どうぞお読みになって。