死を考えるとき、それを平日の終わりのように捉えるか、休日の終わりのようにイメージするかでだいぶ様子が変わってくる。お休みの終わる夜、僕はいつも新鮮に泣きたくなる。今日という日が終わってしまうこと、時間の過ぎゆくのを止めることができないこと、あらゆるものごとは儚く消え去っていくことが、嫌で嫌で仕方がない。
今日は一日ずっと本を読んでいた。椅子に座って、布団に転がって、風呂に入りながら。野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『哲学探究』という戦い』、『ゲンロン12』、『新対話篇』を行き来する。「訂正可能性の哲学」をまず再読して、アーレントもウィトゲンシュタインも最近は東浩紀を経由して読んでいるのだな、と改めて思う。ここにきてにわかに東浩紀づいているのはどうしたことかと思うけれど、どうやら僕はまっとうにおっさんになる術を模索しているらしいから、そういうことなのかもしれない。ある程度の保守性を認めざるを得ないというか、そういうこと。それはじつは常にそうだったのだが、いよいよ格好つけて自身の保守性を誤魔化し、先鋭的な物言いを研ぎ澄ますような欺瞞が恥ずかしくなってきた。僕は生活していかなくてはいけない。そしてそれは誰もがそうだ。生活のないところで何を言ってもそれは空疎だ。
すっかり放念していた乗る場の会議にあわてて参加。しっかり仕事で、げっそり疲れた。ご飯なので途中で退出。今日は不思議にお腹が空かなくて、昼を抜いて、夜もお米は無しにした。間食にクッキーは食べたのでそれで炭水化物は充分らしい。
明日は、労働の合間にお散歩とかしたいな。大判焼きも買いに行かなくちゃだし。