2022.08.19

今週のニュースレターと今月のALTSLUM の記事とを書き上げる。週一のお手紙と、月一の記事。どちらも自主連載で、誰に頼まれたわけでもないし、お金にもならない。ただやりたいからやってみているという意味では日記となにも変わらないのだけど、日記が毎日のものであり連続性を感じるものであるとすれば、週や月単位で書くものはむしろ切断を強調する。

特に週一でメールを書くようになって、一週間というのは長いな、と感じるようになった。最近の日記はむしろ停滞を際立たせる。毎日は特に変わり映えせず、地味で具体的な雑務を淡々とこなすようにして過ぎていく。それを掻き混ぜるように本を飲み込んでいく。他者の思考に攪拌され、なにものかが湧いて出てくることもある。その到来を待つようにして本を読む。日記は年単位だったり、ある程度の塊で見ていくと自分の考えの変遷だったり反復を捉えることができるが、日々の書くことのなかではただただ書くだけで、前後の流れや飛躍というのは考えない。だから毎日書いているうちは、ただ次の文字を積み上げているだけで、全体のことはどうでもいいし、意識としては昨日とも明日ともだらっと繋がっている。

けれども週一のメールの場合は、あ、また金曜日が来た、とまず思う。それから先週は何を書いたんだっけと思い出すと、もう随分と前のことに感じる。別に時事を扱うわけでもなく、必ずしも日記のように近い時間のことを思い返して書くわけでもないはずなのに、このエッセイはもう書けないな、と他人事のように読み返すことになる。そして、この日記よりも、週一回のメールの方が日記じみていないか、と思いもする。メールはその宛先が散漫であろうとも、やはり宛先に向けて書かれる。エッセイはこの日記に近い書き方をしているが、そのほかのコーナーはですます調ではっきりとメールを受け取った人に向けて書くようにいつの間にかなった。

僕は日記は保坂和志がランボーの手紙から連想して書くツイートに近い。日記の第一の読み手は奥さんであるが、この奥さんというのは奥さんそのものとは少し違って、奥さんにすべての他者を代理してもらっている部分もあるし、いまは会えない誰かへの確信のない呼びかけでもある。つまり、読み手を想定することはあれど、それがどこかへ届くことはあまり重要ではない。

ランボーのぶつくさはこれとは違う。いまを生きる私がこれを奇異と感じないのは、ツイッターと似ていると感じるからだ。ではなぜツイッターがあるのか。これが問題で、ツイッターというのは本当に不特定多数の人に向かってつぶやいているのだろうか。ちょっとした思いつきや今日一日のちょっとした報告を書く相手というのは恋人なのではないか。あるいは神なのではないか。この違いは、あるようなないような、ないようなあるようなビミョーなものだ。

好きな人がいるとき人は誰でも、目に映るものや自分が今していることをその人に向かって、逐一ツイートしてないか。ツイートする宛て先がいるから、目に映る風景も自分が今していることも光度を増したり新鮮になったりする。風景が神に祝福されて光り輝く。ツイッターというのは好きな人に宛てたツイートの代償行為、というのは大げさというより明確すぎるが、なんかその辺の、好きな人へともちょっと違うし、自分の存在を包み込み全肯定してくれる神のようなものともちょっとちがうけれど、なんかそのあたりに向けてなされた発話あるいは心内会話なのではないか。

保坂和志『試行錯誤に漂う』(みすず書房) p.60

メールは手紙だ。どうあれ誰かに届くものだ。ぼんやりとした遠くの恋人あるいは神のほうへ向けてなされる絶え間ない発話行為としての僕の日記と較べて、メールでは誰かに自分の行為を報告しようという目的意識が強まるのかもしれない。その結果、いま自分のいる場所を記す動機が起こり、結果的にこの日記よりも記録的な文章になるのかもしれない。この日記はそのときどきの思いつきが泡のように現れては消えていくだけだから、なにかを残そうという気分は希薄だ。メールだと、送ってしまった以上、僕の意志では宛先のメールボックスから消去することはできない。そういうことも関係しているかもしれない。この日記はどれだけ僕の実感と乖離していようとも常に僕と紐づいているというか、産地として僕が明記されている感じがあるが、メールの方は送ってしまった後はもう僕とは関係のないものというような感覚がある。よくわからない喩えだし、まだうまく説明はできそうにないけれど。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。