Twitterや日記で組織論だったり仕事術みたいなもの、あるいはその手前の心構えについて、それこそ100字ちょっとでそれらしくまとめるのが上手な人がいる。僕もその末端にいがちだとも思う。ビジネスにひとさじのスピを持ち込む感じというか、新自由主義的な文脈にオリエンタリズム的な意味合いでの東洋思想を忍ばせて、インターネットに重重帝網を幻視する。要は西海岸のヒッピーの精神的末裔を気取るスタンスだ。格好いいよね。僕も『SPECTATOR』を愛読していたからわかる。『SPECTATOR』はほとんど教育漫画みたいになってしまってからはあまり読んでいないけれど、発酵や禅の特集はわくわくしながら読んだ。
で、最近僕は謎に超越的な立場からのグル仕草が恥ずかしくなってきた。そもそも僕は正しくも完璧でもあれない俗世で、資本主義システムの恩恵をたっぷり受けながら生きているわけだし、口だけカウンターカルチャーぶるのもなんだか虚しい。『SPECTATOR』は自営業というか、自分で商いを経営するというのはささやかにでも自分の思い描く理想像をこの社会に実装することなんだと教えてくれた雑誌だ。そこには具体的な、日々をやりくりする個人の肉声があった。それらしい美辞麗句を並べることは、日々のしょっぱさをいなしていく必要の前には鬱陶しかったりする。
たとえば現実には気遣いも根回しもへたくそであろうが、なんのスキルも持っていないとしても、端的に「仕事ができないやつ」にも関わらず、口だけは達者でなぜか態度がでかいというのは立派なことだ、とも思う。というか、社会的な価値判断によらない意味不明な不遜さというのは非常に大事で、僕はなぜかそれだけは持っている。そう自負していた。それでも、年次が上がり仕事をちゃんと達成する必要が増えてくると、結果のなさはどうしたって気になるもので、知った風な原理原則をクリアカットに言語化して満悦するみたいな行為に影を落とす。行為と言説は、解離しすぎると苦しい。今の社会の、電子空間では言説だけが元気よく空転し、行為が伴うことの少ないありかたを考えるに、口先だけでどうにかしたいというのも単なる怠惰以上の一定の合理性があるとは思うのだが、とはいえ行為が伴っていないと自分で自分の欺瞞をつねにまなざすことになるわけで、それはやはり気持ちのいいものではない。とはいえ勤勉にしゃきしゃき働きたいとも思えない。なるべく怠けていたいから会社員やってるのだ。それなのに、会社員をやっているとどうしても怠けていられない局面というのも出てくる。僕はここで強い矛盾を感じる。生産の必要に追われたくない一心で会社にいるのに、なんで追いかけられなきゃいけないんだ?
ここで自己啓発するのは簡単だ。いくつかSF や楽観的なテクノロジー論なんかを読んで、イケてる組織論のトレンドを押さえて、そこでの受け売りを得々とTwitterや日記でそれらしくまとめているうちにその気になって、気がつけば労働が張り合いのあるものに感じられるだろう。そうやって自分のご機嫌をとりながら騙し騙し日々の労働に投入していくのが労働者の鑑というものだろうが、連休明けのいま、そういうのがびっくりするほど億劫だ。いっそ小説を読みたい。小説が足りないとすら思う。僕はぜんぜん小説を読んでこなかった。社会とかどうでもいいから世界のことを考えたい。社会では小さすぎる。いま、有能さを誇示する労働のゲームに没入できそうにない。わかりやすくいえば、そう、僕はいま休みボケだ! 仕事なんかしたくないもんねーぴっぴろぴー。ぽえぽえー。
──というわけで早めに仕事を切り上げて映画館に。『女神の継承』を観に行った。ものすごく怖い思いがしたいな、とかなり期待をして、調べるともう最前列しか空いていなかったけれど強行した。わかってはいたけれどフェイクドキュメンタリーで、手持ちカメラの振れがすごい。一番前で見上げる形だと画面酔いがして、多分外では雨も降り出すタイミングだったからすっかり自律神経をやられて気持ち悪くなってしまった。登場人物が吐くシーンで「あんな思い切り吐いたらすっきりするだろうな……」と羨ましくなる。こんな共感や気持ち悪さはいらないんだけどな。しかも、なんか思ったより長い。途中、色んな意味で諦めかけたが、この色んな意味に恐怖や嫌悪は含まれておらず、ホラーとしても、フェイクドキュメンタリーとしても、どうもいま一歩惜しい感じがする作品だった。これは誰か観た人とわいわい文句言い合いたい。たとえば、撮影クルーの人数や役職は序盤で明示すべきだった、とか。それまでの取材ではせいぜいカメラ二、三個台だったじゃん、というのが気になっちゃう。あの人数だと、大半のカメラマンはあの儀式のためだけに駆り出された臨時応援だったんじゃないかと想像するのだが、そうだとすると異文化への傲慢な窃視を批判するみたいな大枠の建て付けすらボケてしまう。あとそもそもエクソシスト的な怖さって、家というほんらい安心な閉鎖空間で、最も身近な他者が異質なナニモノかに成ってしまうという閉塞感や逃げられなさがキモなはずで、撮影クルーという外部が常に居るというだけで、そうした息苦しさに少なからず開放感がもたらされてしまうのもあまり上手くない。劇映画でよかったんじゃないだろうか。ファウンドフッテージものとしての説得力はべつにいいのだけど、編集者が誰か全くわからないのは看過できない。異郷へのオリエンタリズム的好奇心や無遠慮な窃視は、なにもカメラマンだけが負うのではなく、むしろ編集者こそ責任を問われる立場ではないか。ロメロの『ダイアリー・オブ・ザ・デッド』は、カメラを向けること、そして編集をすること、そのどちらについても批評の態度があったが、『女神の継承』はカメラまでで留まっていて、編集者はやはり不可視の安全圏にいる。それがいちばんモヤモヤする。うーん。消化不良で、電車の揺れにまた酔いがぶり返し、青ざめた顔で帰宅。奥さんにモヤモヤを話すうちにだんだんただの悪口になってきて、気分爽快。よくなかった作品についての方が語りが盛り上がっちゃう自分はあんまり好きじゃないな、と思いつつ、楽しいのだから仕方がない。
