2022.09.08

今週は山本浩貴『Puffer Train』を読んでいた。一日に数節しか進まず、休日の今日をほぼ丸一日費やしていったんの読了を迎えた、いや、読了というか、通読。通読とはひとまずの中断に過ぎないということを痛感させられる作品は久しぶりだ。リニアな文字列で多数の宇宙の折り畳まれを感覚させる、異形の装置としての小説。マルチバースを描いた文学なのではない。この小説自体がマルチバースとして建設されているのだ。おそろしい。複数の宇宙の情景、その反復は、折り畳まれ隣接させられるその過程で変容するが、「変容の儀式を通過することでかえって同じ一つの相貌におさまることになる」。生と死の境界すら無化された平面上に仮固定された身体は、刻一刻と腐り落ち、すぐ隣、あるいは銀河をいくつか隔てたところに存在する誰かへと簡単に滑っていくのだが、「変貌することではじめて実現されるこうした表情の一貫性というべきもの」を獲得している。非常に難解で、まったく汲み尽くせない。とにかく小説は個々人が恣意的にしか読めないものなのだと思わされながらも、同じくらいの強烈さで、恣意的に読むことが決して許されていないともわかる。

恣意的な読み方と方法的な読み方とがともに捕らわれている不自由、それは、そのいずれもが、読むことを見えてはいないものを露呈させる体験だと確信している点に認められる。いま、ここにあるものではなく、いま、ここにはないもの、たとえば心理とか、自意識とか、思想とか、社会とか、全体性とか言ったものに到達することで読むことが完了するのだとするこの不自由、つまり思考の制度性。それがなんのためらいもなく無視するものは表面である。「作品」の表層に境を接して戯れあっている言葉の群、それを超えたより深い地層に、意味が、あるいは人間が、さらには社会が横たわっている。その深みにまで降りてゆくことが読むことだと彼らは考える。考えるというよりむしろ考えさせられているというべきだろう。というのも、読むことが深さの体験だと確信するべき正当な理由はなにひとつ存在していないのに、一様にそう確信することの不自由を誰もいぶかしく思ったりはしないからである。

不断の現在として、いま、ここにみえているものを読むこと。「作品」の表層に、というよりより正確には表層しか持ちえない「作品」の言葉の群と無媒介的に戯れてみること。(…)

蓮實重彦『「私小説」を読む』(中央公論社会) p.254-255

このような読み方は、「以上のような不自由を統禦している思考の制度に、多少なりとも逆らってみたい」という動機から為される読み手の恣意的な選択というよりも、「作品」における「一瞬ごとに鮮やかな変貌をとげつつ、同じ一つの表情におさまりつづけるもののみが生きうる模倣と反復」の実践がもつ緊迫感によっておのずと導き出されるものだ。「作家」が徹底的にあらゆる視線のもとに自身を展開し表面化することで、同じく表層的な言葉の運動と同調し親しく戯れること。いま、ここに書かれていく言葉とともに生成し消滅していくようにして書かかれた「作品」を、読み手はなるべくその表層において追いかけなくてはいけない。いま、この目の前にある言葉を文字通りに受け取るようにして読んでいくことだけが許されている。表層の奥に深さを求めてはならない。あらゆる宇宙はすでに表層に展開されているのだから。

いや、疲れた。すごいものを読んだな。小説は僕はこういうのだけ読んでいたい。しかしこんなものばかり読んでいたら社会生活をつつがなく送ってはいけないな、とも思う。小説は、社会なんかよりもずっと大きいものだから、日々の生活のあらゆることが些事も些事、見えないほどになってしまいそうだった。僕はそれも困るから、ほどほどにしておかないといけないな、と思ってスリリングだ。壊れない程度に冒険する、しかしそんなことは果たして可能だろうか。冒険とは、一歩踏み出して仕舞えばもう手遅れなものだ。

クールダウンに黒沢清の『降霊』を観たのだが、これもまた幽霊を深さに逃がすのではなく、ストイックに表層に留め置く態度の作品だ。非常に格好よく、しかしプロットとしてはコーエン兄弟じみていて、小市民的な欲張りが起動させる最悪のピタゴラスイッチみたいな胃の痛さで、怖さよりも「やめときなよ!」という悲痛さが強く残った。

それから『ビリジアン』と『「私小説」を読む』を読み出して、後者は「はじめに」と「おわりに」から読んだ。それでようやく書ける気がしてきて、日記。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。