うまく寝られなくて明け方にうだうだする。すっかり明るくなってから二度寝して午前中が消し飛ぶ。池袋のIMAX の映画館で『NOPE』を観る。ようやく観れた。ファーストルックが公開される頃から楽しみにしていた映画は大半が公開日前後でタイムラインを賑わせて、その盛り上がりに白けて結局観ないで済ませてしまうことも多い。『リコリス・ピザ』もあんなに楽しみにしていたのに見送ってしまった。そうならないように『NOPE』は早いうちから関連ワード含めミュートしていて、おかげでこの時期になってもほとんど前情報なしで楽しめた。大満足。ヘンテコな映画だった。意味はわかる。過剰にわかる。これはこういうメッセージやねんで、というのを言語偏重気味に訴えかけてくるからこそ、画や構成の面で強烈にわけわからんものをぶち込んできてもなんとなく観れてしまう。一本の映画の中に複数の文法をごちゃまぜにしてしまう野蛮な無邪気さに、ジョーダン・ピールは大文字のホラーの文脈ではなく、シャマラン監督の系譜なのだな、と勝手に納得する。ジャンル映画の遺産を縦横無尽に引用して、異形のナニカを作り出してしまう。人種や国家といった問題設定が明確なぶん、ジョーダン・ピールの方が知的消費に適しているだけで、ほんらいどちらも「うひょー!」とでたらめなバカらしさにはしゃぐ映画作家だと感じる。
渋谷に寄ってパルコの地下で『品品』を見る。アニメは僕がこの世で一番嫌悪している紙兎と紙一重な感じがあって、かろうじて『THE3名様』におさまっていた。若い野郎どもの駄弁りの面白さというのは、映像を伴うとだいたい鬱陶しさが優ってしまうもので、声や文字だけだからこそいい、ということも多い。へたに画がつくと、その構図の締まりのなさに白けることの方が多い。ある種の有害さを帯びたがさつな駄弁りを映像として魅力的に撮るというのは案外むずかしくて、例えばタランティーノはその困難を毎回さらりと越えてみせるから名人なのだ。Tシャツやキャップを買うか迷ったけれど、買わずに帰る。
帰路、『NOPE』の感想や評論をさっそく漁るのだが、見る/見られるの二項対立でこの映画を語るのは陳腐すぎやしないか、とモヤモヤする。そんなものはすべてのホラー、あるいはすべての映画の基底をなしている問いであって、ことさらに適用する意味があるように思えない。『動く馬』のエピソードをマイブリッジから無名の騎手へと奪取する冒頭の身振りからも、『NOPE』の比重は明らかに撮影者=窃視者の権力を糾弾することよりも、被撮影者=行為者を主体として取り返すことにこそ置かれている。回想シーンで妹へ投げかけられるジェスチャー。本作における「見ているぞ」という表明は、見られる側を名もなき存在として周縁に追いやる態度の対極に置かれている。ただ見ているのではない。固有名のある、ほかならぬあなたを見ている、という宣言。そのように固有の存在として見る者に支えられて初めて主体というものが生成する。
見る=撮る=読む=解釈する者たちは、具体的な身体を持つ行為者をつねに捉え損ねる。見るものが対象を完全に所有することなど最初から不可能なのだ。見るものの洞察はつねに盲目を含んでいる。行為者は、観測者を超えている。それでも行為者は観測者に身を晒し、見られることによって、見るという試行の限界を暴露し、見る権力を超越する行為の主体としての位置を獲得する。
恐怖の対象に、極めて私的な文脈を含んだ名前を与えること。その名で呼びかけることは決してせず、見ることも拒否する。そのうえで撮影を試みるという歪さも、見ることの暴力というよりも、むしろ見られることで生成する主体の拒否というふうに読んだほうがいいのではないだろうか。知らんけど。
