昨日の日記ではまだうまく言葉にできた気がしないのでもう少し続けてツイートしてみる。
見ることの権力や暴力を一面的に糾弾するだけでは、見られる側をかわいそうで無力な存在とするスティグマを強化するだけな気がする。『NOPE』はむしろ、行為する者は見られることを通して自らの存在を主体として現すという面に強調点があったのではないか。アーレントの「活動」の要件にも、聴衆が置かれていたんじゃなかったっけ。見る側も一方的な搾取者ではなく、行為者に利用されてる。見ることは搾取にもなれば、エンパワメントにもなりうる。両者の違いは、対象を、自らの目的において匿名の資源として見るのか、顕名の他者として見るのか、という関係性によって決まる。見ることが問題なのではない。見る態度が問題なのだ。ジョーダン・ピールの作品は「見るな」とは言わない。むしろ「ちゃんと見ろ」と要請する。お前の見方じゃダメだ、ちゃんと相手を見ろ、と。では、映画を主体的な観客の解釈の対象として見るのではなく、映画自体を主体とするようにして見るとはどういうことか?
ここまで書いて、ふっと満足してしまい、今のところはここまででいいやと思う。記事ではなく日記なので、断片であることを恐れないで済む。
つまらない気持ちを打破するためにKindle Unlimited で人生をときめかせ仕事が十割増しでできるようになり圧倒的アイデアを爆速で生産するためのノート術みたいな本を三冊くらいダウンロードしてざっと目を通す。できる人間になった気がするよりも、こういうのはまじで一冊で充分だなという気持ちになる。まじめに通読したのは倉下忠憲『すべてはノートからはじまる』だけで、これもKindle だけどもお金を払って買ったやつで、要は人は考えもなにもかも忘れるし、理性はだいたい体調に負けるから、文字として外在化させとくことが大事、というような話で、これこそがノートやメモの眼目なのだとしたら、僕はほとんどこの日記で事足りてしまっている。というか、この本のノートの定義に照らせばこの日記は立派にノートである。記録の道具は全てノートだ。僕はこれまで手書きの方はキャンパスノートやモレスキンにこれもまた日記を書いていたけれど、いまはSUNNY手帳にスケジュールやタスクや短期中期の目標みたいなのをちょこちょこ書いて、アイデア出しみたいなのはHINGE でA4 コピー紙だ。とはいえ手書きはずいぶん減っていて、だいたいNotion とDynalist で済ませてしまう。さいきんの行き詰まりというか狭苦しさの原因は手を動かしていないからではないかという予感があって、手で文字を書く動機付けのためにくだらないノート術の本をながめたかったのかもしれない。おかげで書くぞという気持ちが高まっている。