明日から名古屋入りの計画。先週までの荒れ模様を見ながら、台風で新幹線動かないみたいなことがありうるんだよな、と思っていたから、なんとかなりそうでよかった。今日は快晴。目覚めもぱっちりだったのだけど、はっきりした意識に反して気力はほとんどなくて、家を出るのが非常に億劫だった。午前中はしょぼしょぼやり過ごし、お昼ご飯を食べてコーヒーを飲んだらだいたい何とかなるのだが、どうにもならなかった。なんとなく重たい憂鬱さが残る。これはなんだろうな。一挙手一投足がかったるく、先のことを考えようとするともやがかかったようにはっきりしない。ぼんやりとしたものをタスクに落とし込めず、ぼんやりとしてしまう。せめて帰ってからの荷造りのToDoだけでも打ち出そうとリストを作る。
文字を打ち出すと打ち出した分だけ重さが外在化されていく。重たく張り付いて鬱陶しい服を一枚ずつ脱いでいくようにして書く。すこしだけついた勢いでニュースレターを準備する。昼休憩をたっぷり使って書き終えると、だいぶ元気になってきたように思う。僕は読んだり書いたりしていれば機嫌がいいと自認しているが、もしかしたら、もしかしなくても、書いていないと閉塞感に苛まれるから必死で喚起をするように書いていて、書くための火種を探してあっちこっち読んでいるといったほうが正確なのかもしれない。書いて捨てていかないとすぐに内圧でぺちゃんこになってしまいそうだ。つねに外圧にさらされ、反応を返していかないといけない。うっすらとした強迫観念。
ちょうどよく暇していたいのだけれど、用事ができるときはいっぺんにできるもので、来月は頭からずっと何かしらのイベントが詰まっており、青木さんとのおしゃべり以外はあんまり楽しくない面倒ごとばかりで、柿内正午業に支障が出ないように上手に切り離しておく必要がある。けれども柿内正午を機嫌よいペルソナとして保つことじたい、感染症流行以来どんどん難しくなっている。これまでだってこのペルソナの安寧は賃労働をおろそかにすることで確保されてきた部分もある。賃労働が凪の時期であればそれで問題がないのだが、繁忙期と重なるとなかなか厄介で、自分の仕事のできなさに凹みながらもふてぶてしさをへこたれさせないというアクロバットが要請される。
仕事のしんどさとは、つねに機嫌よくしていなければいけないことだ。
いつだか父がそんなことを言っていたような気がするが、年々これがよくわかる。会社での賃労働よりも柿内正午業でこれをよく感じる。つまり僕にとって今やすっかり柿内正午業のほうが「仕事」であるということなのだろうか。収支でいえばちゃんちゃらおかしいほどの赤字なのだが、関係ない。会社の「労働」で補填すればいい。僕はアーレントのいうところの活動があまりピンと来ていないのだが、仕事と労働の区別にはとても助けられている気がする。生計と制作は、直結していなくともいい。僕の場合は特に、制作に収支の心配を持ち込むととたんにダサくなる自信がある。気前よくおすそわけするためにも、どこかで余裕を蓄えておかなくてはいけない。
ゆっくり読んでいた『本が語ること、語らせること』を読み終える。思わぬところで名前を挙げていただいていて嬉しく驚く。
帰ると奥さんも様子がおかしい。細かい言葉の使い方について追究してきたかと思うと、えへ、えへへと笑い転げる。にこにこしてて可愛い。酔っ払ってるみたいで楽しそう。台風18号の影響だろうか。二人ともフィジカルではなくメンタルにきてる。
