夢見が悪かった。なんか有名で大御所のおっさんがオーナーのDiscord サーバーにいきなり招待されて、意味が分からないから放っておいたら「おれに挨拶もないとは何事だ」と「#お仕置き部屋」というチャットルームに入れられてネチネチ説教されるという夢。どっと疲れた。暖かいところから冷え込む方向の寒暖差は気分に作用し人を憂鬱にするが、涼しいところから暑さに向かう場合は体に湯あたりのようなだるさをもたらすのだと知れた。なんだよ。交互浴は整うんじゃないのかよ。
僕はほとんど何も覚えていない。記憶は僕でなく、場所やモノに宿っていて、僕がまたそれらと関係を結ぶときようやく立ち現れてくる。だから僕が二度と訪れない場所や、もう手に取ることのできないモノにある記憶を僕はもう思い出せないのかもしれない。友人たちも、これまでどんな話をして、どんな遊びをしたんだかわからない。ただ、なんか友達だった気がする、という感覚だけが残っている。だからもしかしたらどの面下げて会いに来てんの、と思われている場合もあるかもしれない。自分のやらかしたことを、話しているうちに思い出すこともある。奥さんと話しているとき、あんなことがあった、こんな店に行った、という話を半分くらい思い出せなくて愕然とする。奥さんが言い張れば僕は偽の記憶を、半年後にはもっともらしく思い出しているだろう。
本もそうだ。読んだことすら忘れている本があるだろう。先日の『ビリジアン』はまさにそうで、読み口が、まるで思い出しているような感覚だなと思っていたら、ほんとうにかつて最後まで読み通していたことに最後の最後で気がついた。でも、この小説は、初めて読むときでも記憶を掘り返すような感覚を喚起するだろうから、ほんとうにかつて読んだことがあったのかどうか、一カ月ほど経った今となっては確信が持てない。
スケジュールもすぐに忘れてしまうから、予定を詰めるのが怖い。明日の自分は他人だから、いま未来を楽しみにしている僕とはあまり関係がない人として当日を迎えることになる。当日の僕はおそらく、過去の自分から面倒を押し付けられたような気分になるだろう。
年々、いまのことしか考えられなくなってきている。一時間前のことすら覚えていないような事態すらある。この調子で自分で把握していると思える時間の幅が小さく小さくなっていくと、どうなるだろう。いまもうすでにそうなっていないとも言い切れない。
ノートをつくることがどんどん切実になっている。僕はいましか考えられないから、蓄積や計画はぜんぶ文字の形で外在化させておかないと、なにもできない。心細さが増しているような気がするが、前からこうだったのかもしれない。覚えてないからわからない。きのうの日記すら他人事に見える。人格とはどこまでが記憶によるものなのだろう。なにもかも忘れたとき、僕はまだ僕だろうか。僕はつねにそんな問いに苛まれているような気がするけれど、もともと何を覚えているというのだろう。なにを根拠に僕は己の連続性を信じているのかしら。
