羽毛布団の誘惑はすごくて11時くらいまで寝こける。
起き出して、亀を洗った勢いを利用していよいよなところまで来ていた部屋の掃除に取り掛かる。髪の毛一つ残さない気概で床のものを上げて、ルーロを起動する。ルーロというのは三角のルンバもどきのことで、すこしアホだけどよく働く。ルーロが仕事をしているあいだお風呂を沸かして温まる。出て、コーヒーを淹れる。ずっと書きあぐねていたものを書き上げて送る。この数週間の自分の内外で散らかっていたり乱れていたものをすっきりさせる時間をつくれて満足。家を出る時間まで『ホラーの哲学』を読んでいた。もうじき終わってしまう。ちびちび進めていた本が終わってしまうのはいつも寂しい。
新宿で奥さんと合流。ルミネエストのエスカレーターの配置は人をバカにしている。僕がゴジラなら真っ先に破壊してやる。あれこれと買い物をして、ゴールデン街のグリゼットで上田碌碌さんの個展に。奥さんの好きな絵を描く人。蝉や蝶の羽を彷彿とさせる図案が多く、黒と金の色使いの奥行きが、平面のはずなのに多層的でいつまで眺めていても飽きない。かつて奥さんが書いた文章を読んで覚えていてくださったらしく、書くと届くのだな、となぜか僕まで嬉しくなる。階下のカウンターで出張喫茶のお菓子をいただく。チョコテリーヌとキャロットケーキ。どちらもとびきり美味しくて感激。ちびちび食べながら絵の購入について検討。奥さんの背中をうきうき押して、気に入った一枚を買うことに。階上のギャラリーに戻って、一枚一枚手に取って吟味していく。傾けて陽の当たり方を変えると驚くほど表情豊かに変化していくので驚いた。これだ、と決めた一枚をほんとうに買う。ポストカードサイズ以上の大きさの絵を、しっかりめのお金を払って自分のものにするというのは初めての経験で、どきどきする。僕ではなく奥さんが買うのだけれど。ちょっとした冒険だ。冒険に立ち会えて楽しい。この場での僕は添え物だから、なるべく静かに気配を消して、奥さんの時間にしてもらう。店を出て歩きながら、絵を買ってしまうと、絵に似合う家が欲しくなるね、などと話す。
新井薬師前に移動して、だいぶ時間が余っていたので中野方面までうろうろ散歩する。やたらに精肉屋が多くどこも賑わっている。喫茶店はすくなくて、当てが外れた。参道も兼ねているであろう商店街は賑わっているのだがどこも地元の人に向けたお店で、ふらっときた人間が気軽に時間を潰せる感じの店は少なく感じた。だからよく歩いた。大怪獣サロンってここにあったんだ。中野の端につくともう劇場だった。
Not in service『JPN』。これまで観たNot でいちばんポップだった。105分があっという間。だからこそ、各要素の処理を見るとものすごくクレバーに感じるのに、いざ総体として批評しようとすると必ず失敗する理由がはっきりした気がする。村岡さんの作品は言語化が難しい。ひとつひとつの要素が難解なわけではない。ただ諸要素が統合されることなく独立して置かれているために、わかったような口をきくための糸口を絞れないのだ。ひとつに飛びつけば迷子になるし、なるべく拾えば散漫になる。『ゾゾゾ』、『トレマーズ』、『トリフィド時代』、『チェンソーマン』、機械学習で甦るマヤの音色……、毎度観客を置いてけぼりにするほど多面的なカルチャーの参照は、「ホラー」という枠組みのおかげで随分見通しがよかった。村岡作品で繰り返されるゼノフォビアというテーマもホラー映えする。けれどもこうした見取り図は、作品の読解に役立つようで役立たない。労働、国家、幻覚、幽霊、団地、モンスター──全ての要素がそれぞれまったく異なる指向性を持ち、恐怖という一点に集約することなく拡散していく。今作はホラーですらない。あらゆるジャンルの規定を逃れている。僕はこの、ブッキッシュな「考察」の予感に満ちていながら、一本筋の通ったクリアカットな批評を明確に拒絶する唯一無二の作品世界に戸惑い、惹かれる。ここまで饒舌なくせに、こんなにも言葉を否定する作品はなかなかない。毎回のことながらNot の作品は楽しくもないし悲しくもないし辛くもないし汚くもないし綺麗でもない。希望はひとつもないのに、自虐にも他罰にもおもねらず、ユーモアも怒りも駆使せず、淡々と笑えないジョークを連発しているような掴みどころのなさこそが、Not in service の魅力なのだと思う。
余談だけれど、上京して初めて格好いいと思った先輩の芝居が拘束ピエロ『GADGET collection vol.2』だった身として、荒川流さんと柴田周平さんの共演に大盛り上がりだった。アフタートークも楽しかった。もっと聴きたかった。終演後に渡辺健一郎さんから直接『自由が上演される』を買えたのも嬉しい。初めて観たNot が『3 fires EP』だったことをお伝えしたり、ついつい熱量の高いアピールをしてしまった。
今度は中野方面に向かって、マグロマートに飛び入り。予約でいっぱいと断られかけたけれど、ちょうどキャンセルが入ったらしくラッキー。お通しのマグロ出汁で炊いた穴子とホタテからもう美味しい。刺身の盛り合わせ、喉肉のステーキ、うにしょ、出汁ポテト、茶漬け。ぜんぶ美味しくて大満足。現金のみだったので慌ててすぐそこのローソンでお金をおろした。店を出て、思わず「満足じゃ!」と大きな声が出る。路地に響き渡ったらしく恥ずかしかったが、通りにはもっと下品で大きな声で喚く人たちがいたからすぐにどうでもよくなった。
帰宅するころには日付が変わっていて、けれども体感としてはまだまだ今日だった。