そういえばいつの間にか四回目接種のお知らせが届いていたのを、よくわからないままに放っておいてもう何日にもなる。何週間かもしれない。いまになって調べてみると、今回のはオミクロン株対応ワクチンで、これは従来ワクチン四回目の対象者でなくとも打てるのだそうだ。まったく知らなかった。感染者数の推移も、以前は毎日確認していたのが三日おき、半月に一度、とだんだん間遠になってきた。自分から情報を取りに行くだけの関心をもう持てなくなっている。人は飽きるし忘れる。これは、単純に関心の中心が移っていったということだろう。ワクチンもなく、対処のしようがなかった病気であったころは、数値の多寡こそが問題だった。けれども、対処できるものであるという認識が広く通念になってくると、それが錯覚であろうがなんであろうが、とにかく数値のような量よりも、どれだけコントロール下に置けているかという質が問われるようになっていく。そういうものだ。
小田急の構内の男子トイレに待機が一人。立つ方が満員で個室は空いてる。珍しいパターン。そこまでして立ってしたいのだろうか。僕は絶対に座りたい派だ。だから追い抜いて個室に入る。こういうとき、だいたいは個室が最低な汚れ方をしているというのがよくある答えだが、今日はふつうに使えたから、先客はほんとうに立つことにこだわりがあったということだろう。梅が丘のキッチン南海。店内の内装も、キッチンに立つお二人の立ち振る舞いや声も経年変化のほか大きく変わることなく、ほっとする。付け合わせの味噌汁が懐かしかった。そうそう、この玉ねぎの甘ったるさがちょうどよく洋食感を保つのだった。あのころのように日替わりのお得メニューにする。カニクリームコロッケ。僕はいつもカニクリームコロッケの日を狙って来店していたような気がする。嬉しい偶然だ。黒いカレーは記憶の中よりもこっくりしていて、よくみれば店主は眉毛まですっかり白くなっている。勝やもラーメンボノボも大むらも健在で、いいお店が多かったな、と思い出す。駅向こうのチェーンの中華屋は別の店になっていた。松屋はあった。フグレンがいつの間にかできていてますますいい町だ。家賃が五万でナメクジが毎日湧くアパートに住んでいた。あのころフグレンのコーヒーを飲む余裕があったかというとないのだが、お金持ちになったらまたこの町に住みたいという気持ちはまだある。カフェラテを飲んで、豆も買う。Little tree は移転して、跡地にはべつのホットケーキが入った。これは僕が住んでいたころにはもうそうだったような気もする。
Dynalist の同期がうまくいかず、昼間に書いていた分の日記がなくなってしまった。同じことは書けないので諦める。残念なようなそうでもないような。僕はとにかく日記は書き捨てられればよくて、なんでも放り込んでおける箱のようなものだから、たまに底が抜けていたとしてもあまり気にしないのかもしれない。
文脈は忘れたがたぶんこんなことを書いていた。制度設計というのはつねに最大公約数的なあり方をベースにしたある規格を全面的に適用することを前提としてなされる。管理社会に抗う効果的な方法は、各々のプレイヤーが制度設計者の想定をはるかに超える運用を好き勝手に連発して管理コストを吊り上げることだ。自ら進んで規格に沿うように自らを律するような態度は、自治の態度としてはすばらしいが、被管理者としては「都合のいいひと」でしかありえない。なんのための自律なのかというのはつねに問うたほうがいい。システムが強固で厳密なものであるときほど、そこからの逸脱はカジュアルな突拍子もなさと量が必要だ。特権というのが、ぐだぐだの運用を許されることと同義になりつつあるこの国で必要なのは、ぐだぐださを民衆の側に取り戻すことだ。上も下も厳密になることではない。僕らはもっとiPhoneを包丁として使おうとするくらいの、めちゃくちゃでどうしようもない愚行を連発し、すっきり簡便な管理を夢見る機関を慄かせ、呆れさせ、職務放棄させることを目指すべきだ。内なる官僚制への愛着を手放し、奔放さを育むこと。自由というのが家父長制や自由主義への自発的隷従をしか意味していない現状はすごく嫌な感じだから、もっと積極的に面倒や不快を避けるような確固たる個人主義的怠惰の台頭を僕は望む。
個人主義的怠惰はしかしいまは非常に嫌われている。誰もがお行儀よくしていることにこそ居心地の良さを感じる人が多数派だからこそ、そのような前提の制度の運用が成り立っている。現行の制度設計に息苦しさを感じたり不利益をこうむるのはつねに最大公約数的な規格の外にある人たちで、この人たちが数において勝ることは原理的にありえない。けれども多数派の快適さのために少数派が一方的に不利益を被るというのははっきりと不当である。本来行政はビジネスではない。快適さの増大ではなく、快適でなさの減少を目指すものである。言い換えれば、ある種の人々だけが被る不利益を取り除いたり、制度上の障壁を最小化することが本来の役割であり、すでに一定以上の快適を享受している人たちの便利や納得を増大させてばかりでは存在意義がない。多数決の民意では必ず負ける人たちの困りごとを解消する不平等な意思決定こそが行政の役割であって、太客のニーズにばかり従うのは間違っている。
ただ、現状の行政機関の体たらくを見ていると、こういった多数決の論理の抑制機関としてあってほしいとかそういう議論以前のお粗末さにあるように見えるのが悲しい。「すでに一定以上の快適を享受している人たち」の範囲すら非常に狭く、国の管理メンバーの都合しか考えていないように見える。本来面倒を引き受けるべき立場にあるのが管理メンバーなのであって、管理都合で納税者の側が面倒を被るというのは馬鹿げている。ユーザーの都合がすっぽり抜け落ちた制度設計の連発を見ていると、心底おそろしい気持ちになってくる。
夜は『ビッグ・リボウスキ』を観る。ブシェミが可愛い。ジョン・グッドマンがヤバくて湿気で壁紙が剥がれる映画だと思っていたが、それは別の映画だった。こっちはジョン・グッドマンがヤバくて敷物に小便かけられるほうだった。とにかくブシェミが可愛かった。
