放っておくと乱雑さを増し、無秩序な複雑さが増大していくのが力学的観点から見た世界というもののありかたで、僕たちの日々の営為は絶え間のない整理整頓なのだが、現代社会というのは、きれいに掃除された秩序がわりあい日々触れ合う多くを覆っているものであるために、むしろ不自然な窮屈さを醸し出している気がしてならない。だからあえて整除されたシステムを攪乱し、乱雑さを取り込もうとするような行為が求められさえするし、僕自身、作品を受容する際はむしろ新たなオーダーの構築よりも、散らかしっぷりの見事さにこそはしゃぐところがある。
だが仕事というのは毎日の地味な家事と同じように、散らかしてはいけないのであって、地道にコツコツ混乱した現状に通訳可能な筋道をつけていくことが求められているというか、そのような日々の無秩序化への抗いこそが仕事なのである。いまの僕はどうも制作に偏り過ぎていて、秩序の破壊や、蓋をされている乱雑さの暴露にしか関心が持てず、それが仕事であったとしても、とっ散らかった要素を取りまとめメイクセンスに導くような導線設計に関心が持てないばかりか、苦痛すら感じる体調のようだった。寒くなってきてからの僕の不調を一文で表すならばこうだ。
やだやだお片付けやだ。
漫画ばかり読んでしまうのも、心象としては大掃除を前にして現実逃避のために『AKIRA』や『風の谷のナウシカ』を読み直すようなものなのかもしれない。この二作はいまだに掃除やテスト勉強をうっちゃって実家のソファで読んでいるときの記憶と結びついている。文明が崩壊していくダイナミックさを前にすれば、掃除もテスト勉強もちゃちなものだ。そんな大らかな気分になれたものだ。
こう考えていくと、僕の生来の学校嫌いや仕事嫌いは、要するに整理整頓嫌いということなのかもしれない。じっさいの掃除はそんなに嫌いではないのだが、家の掃除は秩序の維持というよりも、自分にとって心地のいい乱雑さの塩梅を保つための手入れだからであろう。学校や会社の仕事は、僕の身体感覚とは関係のないところで定められた秩序をお手本に、そこにものごとを収めていく作業だ。僕にとって僕に関係のない秩序というのは散らかりっぱなしよりも気持ちが悪いものだったりするのだ。
これは文章の好みにも言えることで、読み易く平明な文章が僕は苦手だ。非常にビジネスを感じてしまうというか、労働というのは通訳のための整理整頓なのだという僕の感覚からすると、多くの人に誤解なくすんなり通じる言葉の運用というのは単なる労苦としか思えない。伝わるだけのこと、そんなのはパワポで十分で、本は僕はわからないほうがいい。わからなさに戸惑い、興奮し、自分の中で組みあがっていた秩序が脅かされ、解体を余儀なくされる。そのために僕は本を読むのであって、わかってもしょうがない。わかるんだったら読む必要がない。
そうだ、いま僕にはわからなさが足りんのだ。なんかわかった気になれる本ばかり読んでいる気がする。だからわかることに倦んでいるのだ。もっとわけわかんないもの読まないといけない。いや、そんなことより、今は目の前の散らかりをなんとかするべきなのではないか。そのためにも、まずはわからなさを増大させることよりも、整理整頓すると気持ちがいいという感覚を思い出す必要があるんじゃないかな。はいはいそうですね、社会性はいつだって「正しい」ですわね。だからなんだっていうの?
