電車で不機嫌をまき散らすダサい人がまた増えてきている気がする。感染症流行以降、いよいよ他人とのフィジカルな接触を忌避するようになって、電車も空いていたし、誰もが縮こまっていた。そうした緊張がほどけてきて、車内でがしがし人に体をぶつけてきたり、隣の人に肘を乱暴にぶつけて自分の領土を拡大しようとするような人が再び目立つようになってきたのかもしれない。そんなみっともない人の一人が、二人の小柄な女性を大きなリュックでよろめかせながら、僕の隣にドサッと乱暴に座ってきて、しきりに肘で僕の肘をつついてきたので、僕も愚かな怪獣だからわざといっそう肘を相手のスペースに突き出して対抗してしまった。がんがん肘を当ててきて、それでも僕が譲ろうとしないから、その人はどたどたと下品な足音を立てながら席を立ってどこかに行ってしまった。お互いダサすぎたな、と思う。幼稚にみみっちい嫌がらせをしてくる人は、ちゃんと叱りつけられたほうがいいのかもしれない。きょう周りの人にいちいちぶつかっていった彼は、とても小心者のように見えた。明らかに故意に、けれども事故と言い張れなくもない程度に、肘やリュックで人を小突いて回り、相手から抗議の意思を感じるとさっさと逃げて行ってしまう。その卑劣さ。相手のことを交通可能な他人とみなしていないで、ただ苛立ちの原因やはけ口としてとらえている感じ。話しかけて注意したらどうなるだろう。へどもどとして立ち去るのか、逆上するのか。この電車の中で、人間はあなただけではないんですけど、と言いたい。でも、僕もそんなこともわからないつまらない人のために要らぬリスクを取りたくないから、黙ってそのいきり立った背中を見送るだけだ。というか、もっと悪い。僕も姑息に肘で相手と張り合ったわけだから。ダサすぎる。ダサさに対抗しようとして自分もダサくなってしまうとき、なにより自分のダサさにダメージを受ける。ぐっへえ。
恥ずかしさのあまり吐血しながら労働。キーボードに真っ赤な水たまりを作ってしまい、打鍵しているとかぷかぷと音が立った。しだいに回線がショートしてとうとう仕事ができなくなってしまったので僕は力いっぱい大きな声を出したり、机をバンバン叩くことで自分の存在を誇示してポジションを保とうとしたが、血を吐いているので声も出ず、そもそも大きな音を立てるのは嫌いなので、ただ静かに机の染みを眺めていた。念のため言っておくと血も吐いていない。僕が恥ずべきバカであることだけが本当。もはや血の海で溺れたい。
阿久津さんの日記のメルマガをまるまる二か月分くらい溜めてしまっている。「代わりに読む人」のメルマガに至っては購読だけしてまだひとつも読めていない。電子データの積読は、ただ未読数のプレッシャーだけがあってあまりいい気持ちじゃないから読みたいのだが、タスクをつぶすようにして読みたくないと思うと時期が来るまで積むしかなくなる。けれどもとうとう耐え切れず、読書の日記を昼休みに一気読みする。すこし走ってしまったが、これでまた土曜朝のルーティンを取り戻せそうな気がして安心。結局タスクのつぶし込みみたいになってしまったかもしれない。でもすっきりした気持ちで嬉しい。「代わりに読む人」のほうもどこかで時間を作りたい。こちらはまだ読んでいないので、一読にどれだけ気合がいるものか判断できていないのが積んでいる大きな理由だろう。まずはメールを開封してみるというところから始めたい。友田さんは独立して一年がたったとツイートされていて、すごい一年だったろうなあ! と思う。fuzkue も八周年。すごいことだ。最近はfuzkue に行けていないというかそもそも本を楽しく読めていないから、しかし本を読む楽しさを取り戻すためにもfuzkue に行ったほうがよくて、僕にとってfuzkue は整体に行くようでもあるというか読むための調律としても重宝している。あのお店に行けばいい感じの自分になれる、というのはたいへん助かることだ。助かりたい。そしてあわよくば僕も誰かの助けになりたい。そういう心持ちを取り戻してやりたい。いい人間いい人間。はやくいい人間になりたい。
帰りの電車で新しい本を読み出す。するとべらぼうに面白くて、嬉しさでにこにこしてくる。いま読みたかったのがこれかはわからないが、いま僕にいちばんハマる本はこれだ! という興奮。それはこのように始まっていく。
フォン・アミラは、四足獣に刑罰を科すことと小動物の裁判との間に、はっきりした学問的区別をつけた。前者は世俗の法廷が、豚や、牝牛や、そのほかの動物にたいして、殺人の罰として死刑を科したものである。後者は、教会の法廷が、ドブネズミや、ハツカネズミや、イナゴや、ゾウムシや、そのほかの害虫たちが穀物などを食い荒らすのを防ぎ、彼らを果樹園やブドウ畑や耕作地から、悪魔祓いの儀式や破門をおこなうことで追放しようとしたものである。四足獣は人間に仕えるべき存在なのだから、人間同様に逮捕し、裁判にかけ、有罪宣告をし、処刑することができる。それゆえ彼らを定められた時間に法廷へと召喚し、その行状を告白させ、言葉の厳密な意味において処刑する必要はない。州長官が彼らの身柄を預かり、看守たちに拘禁させれば十分なのだ。それにたいし人間の支配下にいない昆虫たちや齧歯類の場合は、これを世俗の権威者が捕らえ監禁することはできない。それゆえ、彼らに土地を荒らすのをやめさせ、人間の耕作地から退去させるために、教会がその超自然的な力をもちいることが必要になる。こうした有害な生き物の群れによる荒廃を止めるためにとれるただ一つの方法は、“超自然的な力”をもちいることであり、司祭による祈願や呪詛によって彼らを追放したりうち滅ぼしたりすることなのだ。刑事被告人のうちの数匹だけを捕らえて法廷に連行し、アナテマが唱えられるさなかに厳かに処刑するというのが慣行であった。こうした簡略な方法だけで、群れすべてにおなじ刑罰を科したことにしたのである。このような簡略な方法によらず、害虫の首に賞金をかけて、すべてを駆除しようとしたこともあった。たとえば八八〇年にローマでイナゴの害が起こったとき、彼らを滅ぼせば賞金を出すというお触れが出された。しかし、イナゴの増殖速度はあまりにもすさまじく、あらゆる努力は水泡に帰した。そのため、悪魔祓いをおこない、聖水を撒くしかなかった。
エドワード・ペイソン・エヴァンズ『殺人罪で死刑になった豚』遠藤徹訳(青弓社)p.10-11
この本自体が1900年代に書かれたものなので、百年以上前の「現代」から読み解く中世というふうに読む必要があるのも楽しい。人間の支配下にない、世俗権力関係の外部に存在する昆虫たちを、悪魔祓いのような呪術的儀礼によって退けようとするというのはまだわかる。そうした呪術が効果を発揮するために、手続きや段取りを怠ってはいけないという感覚も理解できるから、呪術の場を構成する準備として裁判のような形式が重んじられることもあるだろうな、とも思う。けれども、その前段の「四足獣は人間に仕えるべき存在なのだから、人間同様に逮捕し、裁判にかけ、有罪宣告をし、処刑することができる。それゆえ彼らを定められた時間に法廷へと召喚し、その行状を告白させ、言葉の厳密な意味において処刑する必要はない。州長官が彼らの身柄を預かり、看守たちに拘禁させれば十分なのだ。」というのがさっぱりわからない。人間同様に世俗裁判で裁くことができるのなら、人間と同じような裁判の手続きがなされるのではないのだろうか。王や領主のような世俗権力によって「逮捕し、裁判にかけ、有罪宣告をし、処刑することができる」から「法廷へと召喚し、その行状を告白させ、言葉の厳密な意味において処刑する必要はない」ってどういうことなんだ? 「逮捕し、裁判にかけ、有罪宣告をし、処刑すること」って「法廷へと召喚し、その行状を告白させ、言葉の厳密な意味において処刑する」ということじゃないの? どういうことなんだろう! という異物感に大はしゃぎだが、単なる誤訳や誤植かもしれない。要は四足獣には世俗権力が適用されるけど、昆虫は教会の権威によって裁く必要があるということを大筋では言っているのだとわかれば充分なのかもしれない。ここまで読んだ奥さんに指摘されてハッとしたけれど、家畜は人間の「所有物」だから裁判の客体となることはあっても主体とはならない、だから正式な手続きは不要だということなのかもしれない。主人に逆らった奴隷や女性に対する裁判と同じ発想ということか。なるほどね。なんにせよ知らない世界の知らないものの見方について書かれた本だ。その知らなさはとても楽しい。
