花粉だろうか。目がしょぼしょぼしてならない。だか乱世入力で書こうかとも思ったが、目が屋良っれると全部やらるので、目を瞑って書くことにした、序れが本当の豚インドタッチだ、僕の対応ング技術がためだt理ぇいる。
花粉だろうか。目がしょぼしょぼしてならない。だから、音声入力で書こうかと思ったら、目がやられるとへ全部やられるので、目をつむって書くことにした。これが本当のブラインドタッチだ。僕のタイピング技術が試される。そう書こうとしたのだが、結果はご覧の通り。全然だめでした。この段落は音声入力です。最近の音声入力は、勝手に句読点をつけてくれて賢いのね。
一段落目の目瞑りタイピングは論外だし、音声入力も句読点の自動入力がすごくはあるのだが鬱陶しく、やっぱり目をしぱしぱさせながら指と目で書くほかなさそうだ。なんだよ、「豚インドタッチ」って。さいきんまた目が悪くなっている気がして、いまは持っている眼鏡が五本で、どれも同じ度数だから、ぜんぶ取り替えるのは無理だな、と思いつつ、一本くらいはクリアに見えるものにしておきたい。JINSで視力を測ってもらうと、実感より視力は下がっていないとのことだが左目はたしかにすこし悪くなっていて、右目に乱視が混じってきていると言われる。フレームが古くなっていて交換は破損のリスクがあるということでいったん断念する。前髪の先端ががちょうど鬱陶しい位置にあり、とにかく目が気になる時期らしい。奥さんは一日中しゃっくりをしている。驚かしてもツボを押しても止まらなかった。
『ゆるキャン△』の映画を観た。寝室のスクリーンで、ヘッドホンを繋いで。映画は音だな、というのが自宅の映画鑑賞環境を整えてよくわかる。映画館ではまずは天井の高さや、椅子の柔らかさこそが映画なのだと感じるが、音こそが映画を映画にしているのだ。テレビでやっていたアニメが劇場版になるとき、これが顕著だ。一音目からはっとするし、なにげない生活音がいちいちよくて、室内外の鳴りのバリエーションだけでも楽しい二時間だった。声もすこし大人びていて、声優ってすごいな、と感じ入る。僕はこの作品を夢みたいだと感じていて、作中の名古屋や山梨は現実に似せたユートピアなのだ。キャラクターたちが大人になっても、夜道を脅かされることなく安心しきって歩ける世界がそこにはあって、そんなことすら夢のように感じてしまうことに改めてぞっとしたりする。皆の進路も、活動も、ギリギリ興醒めしないで済む程度のファンタジーで、彼女たちの生きる世界が優しいものでよかった、と思う。初めの方は不安で仕方なかった。あれは高校生ゆえのやさしさで、彼女たちも大人になったら社会に疲弊してしまうかもしれない。そんな姿は見たくないな、と。だから、松ぼっくりの初登場シーンに不穏さを感じ取ってしまって僕の情緒はダメになってしまい、そこから世界の優しさが開示されるたびに、これは夢だ、夢みたいだ、と嗚咽していた。物語としての盛り上がりを見せる最後の二十分くらいを除いて、百分くらいはずっと泣いていた。ささやかで、少し退屈で、それでも静かな喜びに満ちた生活の断片が描かれるとすぐ感極まってしまう。美味しそうにご飯を食べているシーンなんかはもう眼孔が蛇口。多幸感に満ちていながら、ふっと孤独な横顔を掬い取る手つきがテレビシリーズの頃から大好きで、そういう寂しさもちゃんとある映画だった。寂しい図が差し出されるたび、あううう! と声をあげて泣いてしまう。心底、映画館で観なくてよかったと思う。
名古屋が地元で、両親は高速道路を走って山梨に遊びに連れていってくれることも多かったから、『ゆるキャン△』の生活はどこかありえたかもしれない実家近辺での暮らしを幻視するようでもあり、余計に切ないのかもしれない。車と広い家。そのどちらとも縁のなさそうな暮らしをしているが、子供のころ思い描いた大人とは、彼女たちの両親のような姿をしていた。
十七時前にはもう日が傾く。ケーキを買いにコンビニに行って、祁門紅茶を淹れて奥さんと食べる。祁門紅茶の缶にはマスキングテープで「95度 1分」と書かれていてわかりやすい。美味しく淹れることができた。
