いまは『近現代日本の民間精神療法』と『現代人はキリスト教を信じられるか』をすこしずつ読み進めていて、どちらもカロリーが高いのでくたびれると軽めの新書や雑誌をはさむ、という形だ。外に出る時は軽めの本が助かりはするが、欲望は止められないのでリュックに『近現代日本の民間精神療法』を入れていくこともある。ただし、そうなると肩がまじでしんどい。新書や文庫は軽くてすごい。助かる。
千葉 小説、苦手なんです。 というか、人間と人間のあいだにトラブルが起きることによって、行為が連鎖していくというのがアホらしくてしょうがない。だって、人と人のあいだにトラブルが起きるって、バカだってことでしょ。 バカだからトラブルが起きるのであって、もしすべての人の魂のステージが上がれば、トラブルは起きないんだから、物語なんて必要ないわけです。つまり、魂のステージが低いという前提で書いているから、すべての小説は愚かなんですよ。だから、僕は小説を読む必要がないと思ってるの。
國分功一郎・千葉雅也『言語が消滅する前に』 (幻冬舎新書) p.70
國分 ここでいきなりものすごいラディカルなテーゼが出たね(笑)。
千葉 でも、詩には人間がいないから。物質だけだから。それはすばらしい。
小説を書く前の千葉雅也の小説観がひどくて笑ってしまうが、僕はこの小説の苦手さがよくわかる。僕もバカらしい人間関係の玉突き事故は興味がなくて、オブジェとしての小説の方が好きだ。そういう小説だっていくらでもあるとも思うというか、僕が好んで読むのは人間よりもべつに関心があるような書き手の本に偏りがちだから、多くの小説がくだらない人間関係や社会のシミュレーションであることを忘れがちでもある。そもそも人間が不在で物質だけであれ、詩も小説もバカらしいものだ。愚かだから可愛いし、楽しい。愚かでない人間などいないし、人間の作るもので愚かでないものなんてない。愚かさに居直るでもなく、切り捨てるでもなく、引き受けながら書かれるものが僕は好き。
寒くなってきたからだろうか。まったく動けない時間が増えてきて、布団のうえでじっと途方に暮れている。身も心もしんと停止していて、どう動かしていいのかさっぱりわからない。元気になりたい、と焦るのだが、ここで焦るのはまじでやばいかもしれないな、とも警戒している。今年はいよいよ自分の精神的不調が日常生活や賃労働にはっきりと支障をきたしてきていて、まずい。困る。