まじで調子悪い。月へ行く予定だったロケットが 湖のほとりにつき刺さった そこに住んでいたペリカンの親子は即死だったらしい そんなことを口走るような夜が続いてる。おげえ。
激務だったころと較べると閑職といっていいような部署にいるが、忙しくタスクに追われていた日々はメンタルの不調に気がつけないほど密に稼働してたからむしろ気持ちはヘルシーだったのかもしれない。なまじ暇があるとプレッシャーや不安を吟味できてしまうぶん、正気を保ったままじわじわ削られるようなつらさがある。労働の時間のなかに小休止があると、がっつり休むということをしなくなって余計に擦り減る。忙しいころと較べたら体はそんなに疲れてないし、なんなら自分はそこまで大変なことしてないから、お金や時間をかけてしっかり休養するのもちがうかも、みたいに考えてしまう。労働なんか繁閑に関わらず心身の健康に悪いんだから、どうあれしっかり休むべきなのだ。
勤勉たれ、という呪いは社会からの外圧だから厄介なのではない。勤勉である自分の方が好き、という内在的な欲望の問題だから厄介なのだ。暇なのが好きなくせに暇だと病むとはこれいかに。時間に余裕があると不安が増幅するのだ。そして不安というのは具体性に欠けるからタスクに落とし込んで処理することができない。漫然としたままこちらを責め苛むし、こちらもよくわからないままに疲弊する。不安に所在を与え、説明できたとしたらそれはもう不安でも何でもなくただの課題で、いま僕は賃労働に不安の原因を押し付けようとしているが、じっさいはそうではないのだろう。だからただ不安がある。
不安や緊張に苛まれるとき、だいたい季節の変わり目なのだけど、ちょうど気候の不安定な時期である5月と11月に文フリがあり、本を作ったり忙しく立ち回るというのはかなり利にかなった健康法だったのだな、と不参加となった今回つよく感じる。毎年のように文フリの時期つらいから、今回は本を作らず休もう。そのように考えていたのだが、むしろ制作はどのみちつらいこの季節を乗り切るために必要な回復の行為だったのだ。
このように精神がまいっているので、きょうはちゃんと全力で休むぞ、と決めていた。午前中から西荻窪に向かい、ROOFTOP というフィンランドサウナに。二時間で二千円とかする。サウナ界のフヅクエみたいな高級店で、しかし値段相応の充実度だった。まずなによりサウナ室でアンビエントが流れているのがいい。ラジオやテレビや有線のしょうもなさに耐えなくてはいけないの、けっこういやだったので、こうして不定形の環境音楽に包まれてぼけーっとできるのはすごく嬉しい。ロウリュもはじめてだったけれど石に水をかけると数秒後に熱波がやってきて、一気に汗が噴き出すので面白かった。水風呂を独り占めできるのも最高。野外に一人サイズの浴槽が四つ並んでいて、さぶんと入ると気持ちがいい。外気浴のリクライニングチェアも充分な数があって、サウナ、水風呂、外気浴をマイペースに繰り返していて、一度も待つ時間がなかった。これは平日の午前だからで、休日はそこそこ待ちそうではある。秋晴れの空を仰ぎながら風に吹かれていると、あまりの気持ち良さに細めた目がほとんど白目を剥いていて『黄龍の村』の大学生を思い出した。
ほかほか気分で今野書店に立ち寄って、入り口すぐの雑誌コーナーに面出しされていた『tattva』を手に取り、新刊の島と海外文学の棚をチェックし、文庫の台から『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』と『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』をゲットし、漫画の新刊コーナーに積まれたと『香山哲のプロジェクト発酵記』を買う。
フヅクエまで歩いていって、入ってすぐテカテと味噌汁の定食をオーダー。ごはんをもりもりおかわりしながら『現代人はキリスト教を信じられるか』を読む。二章ほど読んで、『ディディの傘』をじっくり読む。暗くなるまで大切に「d」を読んでいて、二作目はまた今度にしようと思った。コーヒーとチーズケーキを追加。『賃労働の系譜学』と『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』、『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』の序論をザッピングして、『賃労働の系譜学』と『人間の解剖はサルの解剖のための鍵である』を交互にすこしずつ読み進めた。保坂和志の「揺籃」もすこし読んで、これはベケットをやろうとしたのかな、と面白い。後年の保坂和志に感じる呑気さの片鱗がありつつも、確信的におぼつかない足元を維持しようとする緊張感があった。どの本もたいへん面白くて、これでまた楽しい読書の日々を続けていけるな、と安心する。
帰りに、何度か来てくださってます? と訊かれたので、ふだんは初台で、と応える。午前中はROOFTOP に行ってきて、と言うと、ああ、いいですね僕もよく行きますとのことで、店の近くにもサウナ付きの銭湯があることを教えてもらう。西荻窪であればサウナからのフヅクエ、あるいはフヅクエからのサウナという最強のコースを組み立てられてしまうとわかった。ゆっくり時間をかけて、気持ちよく本を読むための体勢を調律する。理想の休日だ。
帰ると春の神戸土産の粉をつかって明石焼きパーティーで、たこ焼きもあった。明石焼きは卵焼きで、たこ焼きは粉物。はっきりとぜんぜんちがう食べ物で、面白い。どちらもたいへん美味しく、楽しかった。
休日はこうやって全力で楽しめる。だから楽しめるだけの心は残っている。でもやっぱり胸のあたりに漫然とした空疎な感覚がずっとある。これは体調だけの問題でも、心理的なプレッシャーだけでもなく、全く具体性に欠けた名指せない不安なのだということがはっきりした。それだけでもすこし安心するというか、不明であることがわかるというのはもうはんぶん明らかになったようなもので、こうなればなんとかやり過ごすほかない。下手に原因を作り出して隘路にはまってしまうよりも、ぬぼーっと踞っていたほうがまだ穏やかかもしれない。本を読んで、勉強して、あれこれと考えよう。不安なとき僕は僕にべったりとくっついてしまって身動きが取れなくなる。なるべく大きく遠いことを思考して、自分のこと以外に夢中になったほうがいい。そうなれるように、僕は僕に本を差し出す。あるいは、奥さんのことを考える。自分と同じくらい好きなものや人が家にいるというのはとても幸運なことだなと思う。自分が笑えない時は奥さんを笑かしたいと思う。というか、恋人が死ぬ小説を読んだから、生きている奥さんを慈しみたい気分が増しているのだと思う。本を読むと人に優しくありたいと思う。優しくありたいという気持ちは満員電車や、自分本位で高圧的な同僚や、気の合わない隣人たちとの交流を経てあっさりと消し飛んでしまうものだから、何度も何度も思い出すために本を読み、映画を観る。ある種の作品は、すぐに忘れてしまったりバカにしたりしてしまう素朴な理想を保存して、いつでも取り出して確かめるためのものでもある。
