きのうは寝てしまったので朝に日記を書いた。10時間くらい寝た。がっつり寝ると仕切り直しのような気分になれていい。明日までだらだらと労働が続いているからか、年の瀬の実感が薄い。毎年そうだった気もする。忙しくしているの年末って感じがするのだろうか。事務所では電話のときにマスクを顎まで下げる人がいて、こいつはこの二年半ずっとそうだった。衛生観念にすり替わった差別心というか、嫌悪の気持ちを剥き出しの中年男性の口元に抱いてしまうことが増えた。汚いな、と思う。鈍感な愚か者への軽蔑は、気持ちを若く保ってくれるから頼もしいところもあるけれど、僕ももういい年だし、できれば穏やかな鈍感さに胡坐をかいてやり過ごしたいと狡い気持ちも湧いてくる。とにかくああいう汚らしさには堕したくない。でも、若くて潔癖な人たちからしたら、僕も似たような年寄りに見えるだろうと思うと悲しい。悲しい? そうではないな。なんだろう、そりゃそうでしょうね、という納得はある。だから諦念だろう、諦念と悲しさは同居しうるが、そういうものでもない気がする。いまとなっては十代のころのような苛烈さはないけれど、それでもいまだに憤っている。この憤りが憤りとして表出しないことへの悲しみはあるけれど、どうしてわかってくれないんだ、という気持ちはない。穏やかさが鈍感だけを意味するのではなく、むしろ世への憎悪の結果でもありうるということくらい、十代のころからわかっていた。でも、どれだけ憤っても体の外まで滲み出ていかないほどにまで、自分が草臥れてしまったり、飼い慣らされてしまったりすることへの、ああ、としか言いようのないこの感じは知らなかったかもしれない。明晰な僕のことだから、知っていたかもしれない。もう覚えていない。いつか思い出すかもしれない。思い出すために書くというのに取り掛かる頃合いなのではないか、そんな予感がある。
首の肌がガサガサに荒れていて困る。アトピーで、小学生のころから化粧水や保湿クリームをつけないとどうにもならなかった。自分が「男らしさ」と距離をとった一因に、うっすらと肌のケアをするのは「男らしくない」という感覚があったからなのではないか。それに気がついたのは『SmaSTATION!!』で香取慎吾が化粧水を使っているとなにげなく表明したときに、わ、と思った時だ。それは言っていいことだったのか、というような衝撃。そんな衝撃を受けたことへの衝撃。僕は「男らしくない」ことは早々に受け入れているつもりで、それでもどこか「男らしさ」に拘泥していたのだな、ということをこのとき自覚して、それ以来じぶんの「男らしさ」幻想を意識的に潰していくようになったように思う。けれどもこの潰し込みは、一種の逆張り精神というか、別様のマチズモなようにも思える。僕はかわいくなることで勝とう、みたいな。いったい何に勝つというのだろう。
お昼で半休を取って、ラーメン屋で餃子とビール。この歳になってビールが飲みたいと言う欲望を獲得したと思っていたけれど、やっぱり生は苦手なままで、瓶が好きらしい。新宿武蔵野館で『マッドゴッド』を観る。セラピーのような映画だった。目も当てられないような凄惨な地獄巡りが、やや退屈な構図も多いなか延々と繰り広げられて、そのくせ画面の圧はずっとすごい。糞尿や内臓がとにかく迸り、淡々と無意味な死が量産される。救いもなければ筋らしきものもなく、そのくせラストに表出するなけなしのユーモアが劇場を去る人間に妙な爽やかさを土産に寄越してくる。いい映画だった。
『実話怪談 虚ろ坂』を読んで、これが今年の最後の一冊になるのやだな、と思ってお風呂で円城塔訳のKWAIDAN を読む。クワイが好物である奥さんは、八雲の怪談にはクワイが入ってるね、と嬉しそう。そうだね。
春ごろ、日記を本にするだろう。タイトルはおそらく『差異と重複』とする。きょう思いついて、あ、これで作れるな、と嬉しくなった。模倣、まがいもの、僕の日記はだいたいにおいてパロディだ。日々の生活それ自体もパロディといえるかもしれない。作品に触れて嬉しくなると真似したくなる。そういう素朴な態度を忘れないでいたい。作品から自らを遠ざけて、修養を積むかのように本を読む人のことを、僕ははっきりとバカにしている。作品を前にして、自己目的的でない目的などぜんぶ不潔だよ。享楽できないなら自分のセンスのなさを嘆いて去ればいい。ほかにもっと楽しめることがあるだろうから。