けっこう大人っぽそうな本屋だね。
わたしにも読める本はあるかな、労働の合間に寄った本屋を出るときにすれ違った親子のうち小さいほうがお澄まし顔でそう言った。自分のことを子供だと自覚している子供の物言いは面白い。
大晦日に労働なのは久しぶりで、立ちっぱなしで腰がビッキビキいってた。お尻のえくぼのところに電流が走るような瞬間が何度かあって、あひゃ、と困った。なんだかんだでこの季節は忙しく立ち回っていた方が気分がいい。しかし肉体疲労がとてもすごい。
ぐったりと休憩に出て、ふと昨年でっち上げた「柿内賞」のことを思い出し、今年もやるかあ、と考える。正月は久しぶりにネットプリントを作ろうかな。昨年の受賞作を振り返ってみて驚いた。ここから僕の関心領域がほとんど変わっていない。今年は特に去年と癒着している印象がある。今年あらたに得た展望があったろうか、ないね、というような。多くの人がマスクをつけて外出するようになって以降、僕はやはりうまく本が読めていない。チョコとコーヒーでだいぶ回復。もうひとがんばり。
帰りの電車ではティリッヒ『生きる勇気』。瞼がぴくつく。どっしりとした疲労でまったく頭に入ってこない。なんか勇気の話をしていることはわかる。
へとへとで帰宅。すぐお風呂に入る。溶けるように浸かる。出て奥さんにお尻と腰を揉んでもらう。ほかにも何から何までお世話を焼いてもらって、じんわり回復。仕上げの仮眠の後はかき揚げ蕎麦を食べて、日本酒をちびちびやる。日本酒は夏までほっとくと瓶が爆発すると言うくらい活きがいいやつで、開栓時に半分くらいなくなる、へたすると天井まで噴き上がる、と教えてもらっていたので楽しみにしていたのだが大人しいものだったらしく、僕が寝ているあいだにしれっと開けられていた。おいしかった。
眠気はうっすらと後景に退いて入るけれど、日付が変わる前に寝てしまいそうな気もする。今年は何を読んで〆ようかな。頭は動いていないから、鼓直の句集にしようか。帯にある「無私の人の、ただごと歌」というのがいい。表紙の亀もいい。俳句はほとんど「私」が入り込む余地がほとんどないからいいな。短歌だといくらでも「私」が入り込めるように感じる。僕はとにかく他人の「私」が苦手だが、そのくせこのような「私」にまみれた日記ばかり書いている。日記は書けば書くほど自分が陳腐になる。とるにたらない、誰でもいい誰かになっていく、なっていくというより、もとからそうであるのが露呈する。それがいい。日記を公開したり本にしたりしていると、自意識過剰だの承認欲求だのと内外からノイズがあるけれど、まともにやってみれば、おそらくベクトルが逆なのだと早々に気がつくだろう。自己開示の忌避は、おのれのなんでもなさを直視できないからなされる面もある。自分も他人も誰もが「誰でもいい」のだと諦めることからしか始まらないことがあって、日記を書く僕はそこにしか関心がない。
日記を書いているうちにもうそろそろ年越しだ。隣では奥さんが『Slay the Spire』で遊んでる。