この一年くらい、感染症の状況が何も変わらないなか、完全在宅体制は廃止となり、勤務日の半分くらいは出社日と定められた。僕はこれが気に食わなくて、上限ぎりぎりまで在宅で労働しているのだが、今週はトラブル対応のため毎日出ずっぱりで、通勤しているというだけでずいぶん無為に労苦を強いられているという感覚が増すものだった。出社しても、いや、通勤という面倒によりひと仕事はしたという気分になるからこそ、隙間時間があればぼけーっと過ごしてしまうのだが、いまはそんな余裕もなくとにかく勤務時間中やすみなく動き続けている。労働ぎらいの僕はこれによって機嫌も具合も悪くなる、そうなるのだと思っていたのだが、すこぶるごきげんで快調なのだ。じぶんでも戸惑うほど気分はすこやかであるし、お通じの調子もいい。適度なストレスはあったほうがいいということだろうか。これまで用事が簡単で少なすぎたのかもしれない。なんだかんだで、好みと関係なしにやることはあったほうが張り合いになるのだろう。用事でいえば労働している場合でもなく、日記の校正や次の本の準備などたくさん作ってあるのだけど、自分で作る用事は自分で融通できてしまうから、だらだらとあとまわしにできてしまう。他人から強いられる用事はやらずには済ませられず、そうした嫌な用事にあくせくしていると、自分で作った用事が恋しくなる。あれだけ着手を渋っていた制作に時間を割きたくて仕方なくなって、とにかく目の前のタスクをこなし、すこしでも余裕を捻出しようとする。そうやってもぎ取った余力は、せっかくだからちゃんと使おうという気持ちになる。だるい労働は、自分にとってなるべく他人事であるほうがよくて、そんな他人事に邪魔をされているときこそ、自分の欲望というのは活性化する。阻まれてこそ燃えるのだ。
これ以上忙しくなってしまうと、労働以外に体を動かせる時間が潰されてしまうが、いまくらいのバランスであればむしろヘルシーっぽい。こういうとき、自分の勤勉さがいやになる。本当はだらだらなんかしたくないのかもしれない。しかし本が読めていない。先週末くらいにゾンビ特集の『WORKSIGHT』を買って冒頭の論文を楽しく読んだくらいで、楽しみに借りてきた『〈世界史〉の哲学』の近代篇の2もまだ始められていないし、『ユリイカ』の三宅唱も読みたいし、郡司ペギオ幸夫も楽しいし、『若者保守化のリアル』や『ヒュパティア』も開きたいし、読みかけの『海からの贈物』と『生きる勇気』も最後までもっていきたい。読む欲望と、じっさいに読める量とがまったく釣り合っていない。そんななか、なけなしの読む時間を自分の日記にさかねばならないもどかしさよ。今週中には終わらせたい。そんな気概で合間合間にコツコツ進め、九月まで終わった。あと三か月。終わりが見えてきた! そして僕にはここ最近の日記こそが読んでいて元気が出るし面白い。こいつ面白いこと言うやんけ、と思わされる。二年分の日記を読み返す作業は、どんどん不機嫌で気難しくなる自分を追いかけるようで苦しくもあったが、こうして苦しさを思い出してあげたことで、ようやく僕は感染症蔓延以降のこの生活を受け容れられるのかもしれない。そんな予感がある。世はつねにクソみたいだが、だからといって僕までクソみたいである義理はない。僕は僕としてのんきに、おおらかに、ごきげんにやっていこう。そのように生来のいい加減さや軽さを取り戻すために、二年ぶんの近過去への潜行が必要だった気がいまはしている。日記、書いていてよかったな、日記は書くのもセラピーのようだけど、読み返すのもセラピーのようで、過去を過去として酷薄に置いていくための儀式のようなところがある。僕はまた、ちょっとだけ賢い愚か者として、へらへらふわふわ暮らしていけるかもしれない。というか、つねにそうでしかあれていなかったのだと、ようやく気がつけただけかもしれない。あるいは、作業の終わりが見えてきてはしゃいでいるだけ。
お昼にスンドゥブとキンパのセットを食べて、『ウ・ヨンウ弁護士は天才肌』が途中で止まっていたな、と思い出す。キツツキ、トマト、スイス、子猫、南。ミッフィーちゃんの光るやつのガチャガチャをする。ついでにレオ・レオニのやつも。青いおべべのミッフィーと、ワニのコーネリアスが出てきた。どちらもとびきりかわいいね。
帰りの電車で『WORKSIGHT』を読み終える。面白い記事と面白くない記事との落差が激しくて、雑誌を感じた。Kゾンビ体操みたいなハウツーコーナーは雑誌らしい軽薄さでとてもよいが、論考で引かれる作品名の明らかな誤植が目立ったり、やや信用ならなさもある。巻頭の「ゾンビ宣言」と、ロメロ論。このふたつの翻訳が白眉で、たいへん面白い。だからこそ表記に細やかなチェックを入れてほしかった。本屋lighthouse でイベントをするので、ゾンビ気分をリブートする必要がある。選書のために斜め読みした『ゾンビと資本主義』に取り掛かるべきか、しかし雑誌を読んでも感じるが、僕はこの本の著者とは合わなそうな気もしていて、しかしだからこそ差異を際立たせるためにも読んでおくほうがいいだろう。イベントに向けて投影資料も作りたい気持ちがある。
僕はいつだって怠けていたいし、何もしないでいたいはずが、僕の怠けやなにもしない(Do Nothing)は、忙しなさやスケジュールの過密のなかでこそ輝く。僕はよりよくからっぽになるためにも、喧騒に身を投じなくてはいけないのかもしれない。暇を喜び享楽するためには、暇でない時間が必要で、つねに暇だと退屈に倦んで気が塞いでしまう。暇を欲望しつつ、それが満たされすぎてしまうと具合が悪い。僕はじっさいのところ、忙しさのなかで、暇を夢みることを夢みているのではないか。あるいは、僕がほんとうに欲しい暇とは、忙しさのなかにしかないのではないか。認めたくない事実だ。しかしおそらくそうなのだろう。僕はいま久しぶりに用事に追われ、暇を追いかけるようにしていて、たいへんにいい気分なのだ。
暇はドーナツの穴ってこと、と奥さんは言う。いいこと言うね。
