2023.02.04

Dr. Holiday Laboratory『脱獄計画(仮)』の公開リハーサルにお邪魔した。連動企画である「死なないためのブックガイド」に選書したご縁でお招きいただいた。今回の試演を観て感じたのは、反復を苦役として捉えているようで、そうは見えないことへの驚きだ。

演者もふくめ、戯曲以外のあらゆる要素が、むしろ反復を屈託なく受け入れているようにも見えたから。作中主体→語り手→読者という段階を経る小説の現場では、反復はつねに読者が本を開く瞬間に依存する。けれども、上演は、作中主体→(語り手を振り付ける)演出→(語り手としての)俳優→反復される上演→その反復の過程の一回にだけ立ち会う観客、というふうに、観客は読者よりも遠い位置にあり、反復の現場から疎外されている。反復の契機は、つねに演じることを再開する側にある。だからこそ、観客は俳優の身振りをよすがに作品に接しようとするのだが、その試みは失敗する。小説における語り手の位置を俳優にあてがわれた役に求めても、そこには何もないからだ。俳優は誰ひとり反復を喜んではいない。明らかに反復を強いられている。それでもなお、その強制への抵抗は見られない。

「誰がこの上演の反復を強いているのか?」という問いの失敗に観客は戸惑う。あるいは、反復を拒絶するようなテクストを、あっけらかんと反復してしまいそうな俳優の身振りに戸惑う。この上演は何に向けてなされるのか。反復に苦しんでいるのは誰か。足がかりを失ったまま、孤島に放り出されてしまう。

俳優たちは苦しそうではあったが、その苦しみは反復にあるのではなく、むしろ「反復できてしまう」ことへのもどかしさのように見えた。みずからの模範囚っぷりへの苛立ち。じっさいの上演で何が拒絶され、何に屈したままであるのか。まだまだ予測がつかないままで、たいへんスリリングな試演であった。

かれらさんはこの上演をホラーと位置づけたいと話していた。ホラーは〈私〉のような近代的自我の解体を描いているという点で反小説的でもあり、だからこそ小説の現場でありうるともいえる。〈私〉からの脱却と、仮構された〈私〉を投影するスクリーンであることとを同時に求められる俳優の仕事は、小説とどのような関係を結びうるのか。俳優の自我はどのように位置づけられるのか。僕は俳優の認識と言語運用がいつまでも不思議だ。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。