2023.02.12

きょうは上野の博物館の謎解きを予約していたのでうきうき午前中から出かけていった。気圧は低くて、ぐったりしやすかったから気をつけた。エキュートのアンデルセンでブランチを食べて、さっそく向かう。四時間くらいたっぷりと遊んで、やっているあいだは楽しかったけれど、最後はあっけなく、そっか、という感じ。上野公園を歩く無料のほうは、終わりに、わあ〜! という驚きと感動があって、終わったあとに爽やかな気分だったのだが、今回はふっと終わってしまい、なんとなくすっきりしないところがある。謎解きにも慣れてきて、贅沢な客になっている気もする。別の館に移動するたびに、ぽかぽか陽気のお散歩で、気持ちが華やいだ。僕は陽光を浴びながら歩いているだけで嬉しくなるな、と思う。展示室は暖房がつらいのもあって、謎を解く手段としてしか展示を見られないことも多く、でも謎よりも展示のほうが面白そうではあり、きょうの遊びを遊びたい気持ちと、博物館を楽しみたい気持ちとに引き裂かれるようで、謎解きは博物館でやるもんじゃないのかもとも思った。やっているあいだ楽しかったのは確かで、こうして振り返ると不満ばかりのようなのは、作品も行為も過程のただなかで生起するものだけが本当で、あとから振り返って遡及的にでっちあげられる「全体」なんてちんけな嘘なのだということだ。

千駄木まで歩いてpasele というチュロスとホットチョコレートのお店に。甘くないチュロスが嬉しい。もっとしょっぱくてもいい。通いたいお店が増えると、世への信頼が一軒ぶん増す。

夕食はとんかつにすることにして、三矢の厚切りのやつをテイクアウトすることに。揚がるまで往来堂書店をひやかすも、いちにち遊び疲れて、気圧もあったのだろう、珍しくどの本も恐ろしく見えたというか、これだけの本があり、どの本も少なくない誰かに読まれているという事実が気持ち悪く感じられてしまった。好きな本屋で、並んでいる本に信頼があるからこそ、そうした優れていたり求められたりしている本たちがきょうの自分になにも訴えかけてこないことが耐え難いように思えたのだ。もちろん、評価されていたり時流に乗っているいい作品が、僕が楽しめたり面白がったり作品とは限らない。すこしさびしいが、そういうものではある。さらにいえば、酷評されていたりそもそも誰からも見向きされていないような作品が、なにより心を打つこともある。こんなこと、わかりきったことのはずなのだが、自分の感覚を周囲の評価と関係なしに維持するのはけっこう難しくて、たやすく揺らぐ。

作品というのは作るにせよ受け取るにせよ、社会だとか他人のようなものよりも、もっと別のものに信を置くということであり、それはべつに自分の好みを貫き通すとかでもなく、そうとしかできない、何に対して自分をひらいてくのかという態度表明だ。

なんか、いつもみんな新鮮にうるさい。

本は気の向くまま読めばいいし、音楽は好き勝手に聴けばいいし、絵はただ見ればいい。つまんなかったら今の自分には早かったか遅すぎたか関係なかったかでしかなくて、どんな駄作も刺さる人には刺さってしまうから作品はおそろしい。正解のようなものをでっちあげて、「まじめ」にそれに合わせていても、誰でもない誰かに似ていくだけで、それは現状の社会の域を出ない。

作品との関係は、無難にそこそこに収めるよりも、盛大にズッコケたり、スベったり、痛かったり、恥ずかしい大失敗をしたほうが楽しい。失敗に居直ろうとしても、失敗もまた「正解」と同じ程度には凡庸なものだとすぐに気がついてしまうけれど、「正解」の見事さや面白さは自分で間違えたあとでないとあんまりよくわかんない。

そう思っていたはずなのに、うっかりすると安全に気を遣ってしまって、なんも面白くなくなるな。

無謀に挑みかかってみっともなく転ぶのが年々こわく、難しくなっていて、そんな自分の状態が腹立たしくもある。作品を受け取るというのはどんなに装っても恥知らずなものだし、それでいい。客であることの恥ずかしさを忘れることはできない。どうあれ恥ずかしいのだから、さらに媚びたり卑屈になる必要はない。堂々と上塗ればいいのだ。だいたいがゴミでしかないその上塗りが、かすかにでも作品や制作を長らえさせることに資すればいいな、と願いながら。

柿内正午(かきない・しょうご)会社員・文筆。楽しい読み書き。著書にプルーストを毎日読んで毎日書いた日記を本にした『プルーストを読む生活』、いち会社員としての平凡な思索をまとめた『会社員の哲学』など。Podcast「ポイエティークRADIO」も毎週月曜配信中。