きのう行った東京国立博物館の敷地にある法隆寺宝物館に初めて入ったのだけど、床も板張りでない展示室は防音や吸音もしっかりしていて、しん、としていた。静寂の音を久しぶりに聴いた。50センチ先の奥さんの呼吸が聞こえる。自分の血流すら聞こえそうだった。そのとき、ああ、僕は普段ずっとなにかしらの音に囲まれているんだな、と改めて驚いた。都市というのは五月蝿いな、青木さんについていって東吉野に行った時も、榛原駅を降りた時点でまずはその静かであることに感動してしまった。この耳はつねに聞きたくもないものを拾っている。それが僕はもしかしたらかなり嫌かもしれない。法隆寺宝物館を去り難く思う自分に気がついて、定期的に静かなところにこの身を置いてあげたいな、と考えた。そんな僕の頭のなかは今日もうるさい。
なにげなく見始めた『フィジカル100』がべらぼうに面白くて作業のおともに一気見。明日公開のエピソードが気になる。百人のマッチョがハンター試験みたいな無理難題を課されて、最後のマッチョになるまで闘うという番組で、個人戦もあればチーム戦もあり、ただ力が強ければいいというわけでもなく、即席のチームでの連携や、不利な状況を覆す機転も求められる。でも最後は強いフィジカルと根性がものをいう、という熱いバランスで、おもわず、おわ、いっけ、わはは、などと声をあげて楽しんでいた。セットの豪華さやカメラの数から景気のよさを感じる。お金があって参加者が真剣に勝ちを目指すような番組はたいへん面白いなあ、とにこにこする。
退勤後は『若者保守化のリアル 「普通がいい」というラディカルな夢』を読み終える。中西新太郎という人は48年生まれ。本書刊行時に70を超えているし、採録されている論考もだいたいが還暦後のものだ。それで「若者」として語られる心象に違和感なく、うんそうですよ、という気持ちで読めるものが書けてしまうというのはそれだけですごいことだな、と感心するが、やはりこの国に希望がなさ過ぎて気持ちが塞いでくる。断絶は世代間よりもむしろ同世代の内側でこそ際立っている、という指摘をちゃんとしてくれる世代論というのは安心して読める。右傾化は全世代にわたって共通の現象であるし、とくに噛み合うでもない議論の平行線は思想に先だち拡大する一方の格差によって規定されている。
なんかまじめに未来のこと考えても落ち込んでくるだけだから軽薄なの読もう、と『ピーターの法則 「階層社会学」が暴く会社に無能があふれる理由』を手に取る。帯文と最初の二、三章がかなり面白く、ここだけで十分だった。『ブルシット・ジョブ』を思い出す。エッセイとしては最高に面白いが、本の長さにするには端的にすぎるアイデア。それでもグレーバーは蛇足も重量があって面白かったが、ピーターのほうは話を引き延ばせば引き延ばすほどどんどん粗雑さや足腰の弱さが露呈してくるようだった。特にマルクスの読解というか、そもそもたぶん読みもせずに堂々とコメントしている箇所なんかは苦笑してしまう。アメリカの軽めの本を読むといつも思うけれど、あちらにおけるマルクスやフロイトの一般的イメージってこんなもんなんだろうな、という感じ。あらゆる人間は無能に行き着くのだから、自分が楽しく働けるところでほどほどの無能を露呈しつつのびのび楽しくやろうよ、と唆かす語り口のユーモアにちょっと元気が出る。脱成長みたいな言説との相性もよさそうで、マルクスとも仲良くできそうなものなのに、という気もする。半世紀も前の本だから、当時の文脈はすっかり失効している。いまならマルクスで読めそう、と思うし、はからずも「若者」の心象や戦術とも重なり合うところが多く、いい読み合わせだったかもしれない。
